戸田左門氏鉄公は、元和3年(1617年)7月25日近江国膳所より5万石で尼崎へ転封され、美濃国大垣へ10万石で転ずるまで18年間(1617〜1635)尼崎に在任された。 公は、幕府の命を受け、海に臨んだ美しい新尼崎城(又の名を琴浦城)を築き、優れた都市計画のもと、寺町を含む城下町を建設された。さらに治水事業として、公の名を今に残す左門殿川の掘削、万丈堤防の建設など大きな業績を残された。 また公は、卓越した土木技術のみならず稀に見る治世の手腕をもって、近世尼崎の基礎を造られた。 ここに、戸田左門氏鉄公尼崎転封四百年を記念し、公の功績を讃え碑を建て顕彰する。
尼崎文化協会 |
平成28年(2016年)11月13日、契沖頌歌契沖研究会創立20周年に除幕。 |
柴の戸を我が戸も鎖さぬ庵なれば 山井の清水すみよかりけり 契沖 一寛永の年城内に生(あ)れし契沖十一歳で 妙法寺に入り生涯を仏に仕うと誓い立つ 高野山での修行終えて阿闍梨授かり住職に 歌詠む友も得たれども心澄ますと和泉へと 二母の扶養と師の死去に出家の寺に帰り来る 友長流に教わりし学問の道拓かんと 四十歳の頃に光圀の依頼に応え論証で 近代開く金字塔建てり万葉代匠記 三古学の祖と宣長も仰ぎ称えし契沖は 仕舞付けると隠居所の円珠の庵に移り住み 言葉の林に分け入りて『和字』を正せり『正濫鈔』 敬愛したる光圀の死に殉ずるか六十二歳 知的財産残し置き清澄(きよ)き生涯閉じ給う |
平成30年(2018年)11月、再建。 平成31年(2019年)3月、一般公開。 |
寛永17年(1640年)、契沖は、尼崎藩主青山幸成に250石で仕えた下川元全(もとたけ)の三男として、この地に生まれます。幼少時、父母から『実語経』や『百人一首』などを学び、11歳で大阪今里の妙法寺に入り、真言宗の僧となりますが、それらは契沖の生き方の基盤となります。 24歳で阿闍梨位を授かりますが、出世を望まず、己の信じる仏道者の道をひたすら歩みます。そしてよき理解者でスポンサーの水戸光圀の死に殉ずるかのように、その七七日の元禄14年(1701年)1月25日、62年のダイナミックな生涯を閉じます。 この間、契沖は、40歳の半ば頃、光圀から依頼の『万葉集』の全注釈書『万葉代匠記』を始め、その後の歴史的仮名遣を発見、体系化した『和字正濫鈔』などを従来にない論理的実証法で著し、”古学の祖”と称えられます。 謹厳な仏道者の古典研究への傾倒は、奇異に映りますが、契沖にとって古典研究は”俗中の真”を追求することで、その志向は通底しているのです。 本来契沖の研究法は、悉曇(サンスクリット語。梵語)の研究法を利したもので、「契沖学」の達成は、その土台の上に、天賦の才はさることながら、刻苦と忍堪を重ねて成し得たものです。 また、契沖には、六千余首を収めた『漫吟集類題』などの歌集があります。作歌は、契沖の心の塵を払う”玉箒(たまぼうき)”となったからです。契沖は、歌は”果無(はかな)きことを詠む”と人間の自然の感情を詠むといいます。だからこそ「玉箒」が必要なのです。真実は、自由で、清澄な心の眼でしか見えないからです。 私達は、真実を求めて、新しい時代への道を切り開いた日本の知的財産契沖を敬愛し、その業績を顕彰してきましたが、創立十周年を迎え、地域の誇りの象徴として永く広く人々の心に記憶されることを期し、この碑を建立しました。
契沖研究会 |