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い勢にまかりけるを |
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ひとの送りけれは |
元禄2年(1689年)9月6日、芭蕉は『奥の細道』の旅を終え水門川の船町港から桑名へ舟で下り、伊勢長島の大智院に逗留。 矢立初の句の「行春」に呼応している「行秋」であり、対の句であることは明らかである。 |
九月八月 大垣 蛤のふたみに別れ行く秋ぞ 芭蕉 の句碑 建ちたる記念俳句会あり。夜、きぬ居句会 名月 昔より月に樗の二本の木
『芹』(11月) |
いまの船町、水門川の高橋よりすこし上手、左側に船問屋の木因の家があった。芭蕉はそこを立ち出でて乗船、水門川を下り、揖斐川に入って、伊勢へ向ったのだ。その乗船地点に芭蕉の句碑が立っている。 菱型の自然石の、中の円盤に いせにまかりけるを ひとの送りければ 蛤のふたみに別行秋ぞ 「ふたみ」は二見であるが、「蛤のふたみ」と云えば蛤の蓋と身である。例によって言葉の二重人格。それに「別行秋ぞ」の「行く」もまた「別れ行く」と「行く秋」の二重人格。 (中 略) 句碑の裏に「旧主藤堂家秘藏の遺墨から複写し蛤塚として建立した」昭和三十二年と記されている。
『句碑をたずねて』(奥の細道) |
昭和5年(1930年)5月12日、荻原井泉水は大垣を訪れ、「木因俳句道標」を見ている。 |
高橋の南に、大きな台石の上に、古い春日灯籠が一基、「常夜灯」「船町中組」としてある。その下に、石の道じるしが立っている。 くわなへ十り 南いせ さいかうみち この掘割川を南へ下ると、(揖斐川に出て)伊勢であって、桑名まで十里だということ。この川は木因が開鑿したもの、この石標は木因が建てたもの、文字も又木因の筆だと伝える。
『随筆芭蕉』(大 垣) |
木因何某隠居をとふ |
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隠家や菊と月とに田三反 |
『笈日記』(大垣部)、『蕉翁句集』(土芳編)、『芭蕉翁發句集』に「月と菊とに」とある。 |
木因亭 隠家や菊と月とに田三反 「山居せハ上田三反味噌八斗小者ひとりに水の能所」と一休禅師詠し給へり。木因ハ美濃大垣の住なり。季吟師の門人にして、芭蕉と友としよし |
芭蕉が奥の細道の旅を結んだ元禄二年の秋、旅の疲れを休めつつ、懐かしい大垣連中の家々に迎えられ俳莚を楽しんだが、この句は谷木因の別宅に泊まったときに詠んだという。芭蕉と木因は、最も親しい交友の間柄であり、有名な「鳶の巻」の問答書翰に窺えるように、高雅な力量を互いに讃え合っているロマンとユーモアは流石のご両人と言わざるを得まい。ともあれ芭蕉にとって大垣こそ第二・第三の心あたたまるふるさととして忘れ得ぬ地であったろう。
大垣市文化財保護協会 |
昭和63年(1988年)10月14日、大垣中ロータリークラブ創立5周年記念に建立。 |