その夜、月殊晴たり。あすの夜もかくあるべきにやといへば、越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかりがたしと、あるじに酒すゝめられて、けいの明神に夜参す。仲哀天皇の御廟也。社頭神さびて、松の木の間に月のもり入たる。おまへの白砂霜を敷るがごとし。往昔遊行二世の上人、大願発起の事ありて、みづから草を刈、土石を荷ひ泥渟をかはかせて、参詣往来の煩なし。古例今にたえず。神前に真砂を荷ひ給ふ。これを遊行の砂持と申侍ると、亭主かたりける。
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月清し遊行のもてる砂の上
『奥の細道』 |
「亭主」は出雲屋の主人弥一郎。
8月5日に山中温泉で芭蕉と別れた曽良は、9日(陽暦9月22日)、氣比神宮に参詣して泊まっている。
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一 九日 快晴。日ノ出過ニ立。今庄ノ宿ハヅレ、板橋ノツメヨリ右へ切テ、木ノメ峠ニ趣、谷間ニ入也。右ハ火 うチガ城、十丁程行テ、左リ、カヘル山有。下ノ村、カヘルト云。未ノ刻、ツルガニ着。先、気比へ参詣シテ宿カル。
『曽良随行日記』 |
元禄13年(1700年)、雲鈴は氣比神宮に参詣している。
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気比明神に詣づ。此地も、先師、福井のすきものを、
つれ来り給ふときくに、更に昔のしたはれ侍るに、福
寺を尋ねる。是は風雅のつてにて侍るを、主の女房に
短冊をのぞまれて、
春雨に鶯色の言葉かな
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明和2年(1765年)、蓑笠庵梨一は氣比神宮に参詣している。
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敦賀に到り、道つれの僧と別れて、気比の宮に詣す。社前に白砂を敷わたしたるは、奥の細道に見えたる、遊行のもてる砂ならんかし、中門に木履を多く置たるを人に問に、参詣のともからはきものの穢をははかり、此木履をはきかへて神前へ参るとそ。いと殊勝の事に覚え侍りて、
神垣や木履も匂ふ草の露
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明治42年(1909年)10月16日、河東碧梧桐は気比神宮に詣でた。
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午後の汽車で福井を出発した。古蛄同行してこの地に着き、車を列ねて気比神宮に詣で、金が崎城址に上って、沖の漁火を見ながら、往昔を語った。熊谷迫。
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昭和2年(1927年)10月、小杉未醒は「奥の細道」を歩いて、氣比神宮に参詣している。
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敦賀彎の朝晴れに、先づ氣比の神宮に參つて、波止場に出て昨夜頼んで置いた石油發動船の釜の燒くるを待つ、右手の丘の直ちに海に臨めるは、南朝のあはれを留めた金が崎の古城、
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昭和44年(1969年)6月、中村草田男は氣比神宮を訪れている。
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敦賀市、気比神社にて。同社は遊行上人と縁故ふかき場所なり。
六月や砂で嘴拭く宮雀
『大虚鳥』 |
昭和45年(1970年)4月27日、高野素十は氣比神宮を訪れている。
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同二十七日 敦賀より気比宮、いろが浜に到る 気比の宮
一本の宮の桜の散り了り
御宮の苗代寒の畏しや
『芹』 |
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