元禄2年(1689年)7月4日、芭蕉は出雲崎に泊まった。芭蕉園の前の大崎屋という旅籠に宿泊したという言い伝えがある。 |
大正14年(1925年)8月22日、荻原井泉水は出雲崎を訪れて「大崎屋」のことをいている。 |
芭蕉がここで泊ったという言伝えのある大崎屋という家は、町並のうちの海側で、今は漁師が住み、その一部は船大工が工作する処に使っておるとのことで、軒下では、暗いあかりでアイスクリイムのぶりき罐をガラガラと廻す音がしていた。
『随筆芭蕉』(出雲崎の夕)
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曾良日記には「申の刻、出雲崎に着く。宿す。夜中、雨強く降る。」と記されている。 |
明治42年(1909年)6月20日、河東碧梧桐は出雲崎で芭蕉の「天河の吟」のことを書いている。 |
六月二十日。 出雲崎も佐渡に渡る船出の場所であった。戸数二千戸を算するこの海岸の一都邑である。寺泊からすると二里ばかり距離は遠いけれども、佐渡を望むには二なき好位置に在る。摩詰菴雲鈴坊の「入日記」というものに「先師奥羽の旅にやつれ給ひし頃、今すむ佐渡の国を見やりて、天河の吟あり。さるをみづから其文を筆し、其さまを画きて、森川氏に贈られしを先のとしなむ、井波の浪化のぬしの彼の五老井を訪ひ、これを乞ひうけて今は秘めおかれしを、行脚の紀念と、此日記のはじめに記し侍る」として、 |
北陸道に行脚して越後出雲崎といふ処に泊る彼の佐渡が島は海の面十八里蒼波を隔て東西三十五里に横をり伏したり峰の険難谷の隈々までさすがに手にとるばかりあざやかに見わたさるむべ此島は黄金多く出でて普く人世の宝となれば限りなき目出度島にて侍るを大罪朝敵(?)のたぐひ遠流せらるゝによりてたゞ恐ろしき名のみ聞えあるも本意なき事に思ひて窓押し開きて暫時の旅愁をいたはらむとするほど日已に海に沈みて月ほのくらく銀河半天にかゝりて星きらきらとさえたるに沖の方より波の音しばしばはこびて魂けつるが如く腸ちぎれてそゞろに悲しび来れば草の枕も定まらず墨の袂何故とはなくてしぼる許りになん侍る 荒海や佐渡に横たふ天の川 |
の一文を載せておる。文章の迂拙その真偽を疑わしめるけれども、来歴の慥かなためしばらくこれを芭蕉の作とする。奥の細道には市振の「文月や六日も常の夜には似ず」とこの天の川の句を並記しておるので、どこの作とは判明せぬけれども、この日記に依って、出雲崎の作であることが明らかになった。 |
出雲崎に来れば佐藤家を訪う。案内されて、芭蕉の宿と伝えられる大崎屋の、向い側の小園に「銀河の序」の碑を見た。旧知の碑だ。 (中 略) 句碑は佐藤耐雪氏が建てた。石は中魚沼郡の苗場山の麓からトラックで運んで来た。 碑は、矩形に凹めた滑らかな面に文と句を刻んでいる。 建立昭和二十九年。
『句碑をたずねて』(奥の細道)
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宝永6年(1709年)、明式法師は出雲崎を通りがかる。 |
出雲崎は、佐渡にかよふ舟戸とかや、國外にこゝろ急ぎて、笠の端の右に見て過ぐ。かめわり坂をのぼりて、上輪の清水を汲む。草ふかきあはれ義經記を讀む心地す。 |
宝暦4年(1754年)5月24日、横田柳几は新潟に旅立ち、出雲崎を訪れたようだ。 |
越後出雲崎の眺望 此浦の相手や佐渡に雲の峯 |
安永2年(1773年)、加舎白雄も出雲崎を訪れたようだ。 |
出雲崎はほどちかみ佐渡の孤洲にうちむかひつゝ行にまして秋げにあら波の布帆の行かひもたへ(え)て銀河のほか梁せるものはさらにあらじな |
出雲崎ほと近く佐渡の孤洲に |
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うちむかひて |
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佐渡遠く木かくれに渡る鷹もかな | 白雄 |
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安永4年(1775年)6月12日、加藤暁台は出雲崎から佐渡へ渡る。29日、出雲崎に戻る。 |
安永4年(1775年)6月、木兎坊風石は象潟行脚の帰途出雲崎で暁台とは会えず、以南と会っている。 |
安永6年(1777年)6月1日、鴻巣宿の松村篁雨は出雲崎の山本以南亭に泊まっている。 |
八雲たツ出雲崎なる以南風叟に玉くしけふたゝひ |
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まみえ侍りて爰に故人の情を尽す |
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爰以南亭に一夜舎りて立出る |
寛政3年(1791年)5月4日、鶴田卓池は出雲崎に宿る。 |
出雲崎 宿伊勢ヤ相沢九平衛 此処より佐渡へ 渡海ス 海上十八里ト云
『奥羽記行』(自筆稿本)
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出雲崎 さみだれや猫かりに来る舟の者
「青々処句巣」
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寛政7年(1795年)7月25日、以南は京都桂川で投身自殺した。60歳の時である。 |
嘉永5年(1852年)2月15日、吉田松陰は佐渡に渡ろうとして岩室から出雲崎へ。27日、午前8時に船出して、10時過ぎ佐渡の小木港に着く。 |
二十七日、晴。辰時、船を發す。風順に帆に飽(あふ)る。未後、佐州羽茂郡小木港に到る。 |