無量光院は三代藤原秀衡が造営しました。モデルは宇治の平等院鳳凰堂。鳳凰堂は「極楽を疑うならば宇治のお寺をお参りしなさい」と子供にまで唄われました。無量光院もまた仮想の浄土です。両寺院とも本尊は阿弥陀如来像。西方に極楽はあり、その主は阿弥陀如来なのです。春秋彼岸の頃、無量光院の正面に立つと、西方にある金鶏山の真西に日が沈みます。入日の中に阿弥陀如来が浮かび上がる様子は、まさしく秀衡が思い描いたこの世の極楽浄土だったのです。 |
秀衡館跡 田を植ゑて伽羅(きやら)御所残るものなし
『帰心』 |
先、高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。
『奥の細道』 |
延享2年(1745年)、望月宋屋は「奥の細道」を辿る旅に出る。衣川で句を詠んでいる。 |
衣川 蝉の羽やこぼれて戦ぐ衣川 |
寛延4年(1751年)、和知風光は『宗祇戻』の旅で衣川を句に詠んでいる。 |
衣 川 氷る身の我にも着せよ衣川 |
明治39年(1906年)12月6日、河東碧梧桐は北上川に沿って歩き、衣川の橋を渡る。 |
平泉より徒歩。北上の大河に沿うて遡ぼる街道を来て、衣川の橋を渡る。束稲の連山は右手にだんだん近づいて来た。この山は西行の歌にも詠まれた桜の名所である。 |
文治5年(1189年)閏4月30日、一代の英雄義経は妻子を道連れに自刃した。時に義経31歳。 |
閏4月30日 己未 今日陸奥の国に於いて、泰衡源與州を襲う。これ且つは勅定に任せ、且つは二品の仰せに依ってなり。豫州民部少輔基成朝臣の衣河の館に在り。泰衡の従兵数百騎、その所に馳せ至り合戦す。與州の家人等相防ぐと雖も、悉く以て敗績す。與州持仏堂に入り、先ず妻(二十二歳)子(女子四歳)を害し、次いで自殺すと。
『吾妻鏡』(文治5年) |
享保元年(1716年)5月、稲津祇空は常盤潭北と奥羽行脚。高舘を訪れている。 |
三本木古河にとまる。なを行々て宮野一の関にとまりさためて平泉へ行。高館のあと、義経の影堂、杉山の中にあり。田中に亀井かしるしの松、弁慶堂、桜有。衣川前になかれ、立往生の跡をとゝむ。 |
流れぬや一木すくるゝ影茂み | 北 |
元文3年(1738年)4月、田中千梅は高館に登る。 |
明朝少晴わたりて高館に登ル名におふ城郭は皆田野と成て金鶏山のミ其跡を残す北上川ハ目さむる大河也衣川和泉か城衣の関砌にちかし |
寛保2年(1742年)4月13日、大島蓼太は奥の細道行脚に出る。10月6日、江戸に戻る。 |
高館にて 山そひへ川なかれたり秋の風 |
高 館 高館そ朽てくちせぬおしへ艸 |
明和6年(1769年)4月、蝶羅は嵐亭と共に高舘を訪れ句を詠んでいる。 |
高 館 |
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草摺の昔はむかしぞ青あらし | 嵐亭 |
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只今唯山と河のミかんこ鳥 | 蝶羅 |
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安永2年(1773年)、加舎白雄は高舘を訪れたようだ。 |
高舘覧古 何いひけんも兵どもが夢の跡にぞ有ける ちるや柳たゞつちくれの西ひがし |
安永5年(1776年)、不二庵風五は高舘で句を詠んでいる。 |
高 舘 伽羅楽の花 御所跡や苔も其の世の錦かと 衣 川 夕風や身にしむ旅の衣川
『水蛙集』(三編) |
天明6年(1786年)1月28日、菅江真澄は高館を訪れている。 |
義經の御館(みたち)は高館とて、いといと高き處に在りて、その亂の世に九郎判官、これまてとて怨(ゑむじ)たる一章(ひとまき)を口に含(ふゝみ)て御妻子(おほんめこ)ともにさしつらぬき、その太刀もて腹かき切り給ひしは文治五年閏四月廿九日、御年卅三、法名(のちのな)通山源公大居士と彫(ゑり)て、靈牌は衣川邑の雲際寺にをさむる也。
「迦須牟巨麻賀多(かすむ駒形)」 |
寛政6年(1794年)、倉田葛三は奥羽行脚の途上高舘で句を詠んでいる。 |
みちのく 高館や馬ひとあまり寒かりて
『葛三句集拾遺追加』 |
高館は名の如くの高丘、今は杉林茂り陰氣なる處、秀衡が跡の田になつたあたりから、先づ4、5町あるか、さらば泰衡共が、判官討ちを企てゝも、どうで知れぬ筈なし、知れなば何とか手段ありさうなもの、よくよくの運とあきらめて腹を切つたか、などと思ふ事既に芭蕉翁と等しき、判官びいきの爲でもあらう、岡の頂に堂あつて色白の男の甲冑姿、餘り上作ではない等身の判官像が祠つてある、堂の直下の岸は北上川の曲り角に當つてザラザラと崩れて居たが、古い地圖では、ずつと向ふの、名所束稲山の方に流れがあつたやうす。 |
高館の牛若と逢ふ五月かな
『宇宙』 |
きゝもせず束稲やまのさくら花よし野のほかにかゝるべしとは |
三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先、高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。 |
殊に其義經が決して此高舘で死んだので無く、其は杉目行信なるものが身代りに立つたので、衣川で立往生をした辨慶も實は藁人形であつて、二人を初め多くの勇士は北海道に落ちて行つたのだといふ説の如きは益々其小い多くの味方をして血湧き肉躍しめるのであつて、芭蕉も其笠打敷いて時の移る迄涙を落してゐた間にも、或は時に此傳説を思ひ浮べては微笑を洩らしたかも知れないのである。
(大正3年8月1日『國民新聞』) |
高 館 高館に雪その雪を握り潰す
『一隅』 |