義経が平泉に落ちる時、義経の奥方が亀若丸を生む。弁慶がここはまだ敵地だから、産声を上げないようにといったため、亀若丸は泣かなかった。尿前の関の所で、亀若丸は初めて小便をした。それで「尿前」と呼ぶようになったという。
姥の湯で産湯を使い、亀若丸は初めて産声をあげたので鳴き子と称した。これが今の鳴子温泉の地名のおこりだそうだ。
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昭和2年(1927年)10月、小杉未醒は「奥の細道」を歩いて、尿前の関を訪れている。
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鳴子の温泉は、今は繁盛ながら、案内記を見ても遂近年の發展、芭蕉翁の頃はほんに微かな山の湯であつたらう、尿前の關の跡は今も在つて、温泉から半里ほど、大谷と荒尾の二溪合流の處、山ふところの陰氣な小村、關守の遊佐氏は昔からの家柄、今は落魄したと云ふ、
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昭和6年(1931年)、斎藤茂吉は鳴子、中尊寺、石巻、塩釜、松嶋、仙台を巡っている。
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元禄の芭蕉おきなもここ越えて旅のおもひをとことはにせり
歌集『石泉』(鳴子途上) |
昭和39年(1964年)、水原秋桜子は尿前の関を訪れている。
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尿前のふるみち失せぬ雨蛙(あまかわず)
『殉教』 |
昭和41年(1966年)11月、阿波野青畝は尿前の関を訪れている。
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尿前のしぐれて虹を立てにけり
尿前のしぐれ溜め在り実なし栗
『旅塵を払ふ』 |
「尿前の関跡」に芭蕉の句碑がある。
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