芭蕉と曽良が一栄亭高野平右ヱ門を訪ねたのは元禄2年(1689年)5月28日であった。 川水(高桑加助)は途中まで出迎え、最上川畔の船宿である一栄亭に案内した。 翌日から俳諧あり、芭蕉は新しい蕉風の種をこぼし、「わりなき」1卷の歌仙を残し、今に当地に珍蔵されてある。そのときの翁の表発句は、 さみだれをあつめてすずしもがミ川 であった。翁は黒滝の向川寺を参詣、また川水宅の招きにも應じ、朔日の朝、馬で発足、一栄と川水は途中阿弥陀堂まで送り、別れを惜しんだ。
大 石 田 町 大石田町観光協会 山形県奥の細道保存会 |
芭蕉翁は、元禄2年に大石田を訪れ、新古ふた道に踏み迷いさぐり足している一栄と川水に俳諧の指導をしました。そして、出来ましたのが歌仙”さみだれを”といわれる1卷です。芭蕉翁は自ら筆を執ってこの歌仙を書きました。 平成元年は、芭蕉翁が「おくのほそ道」を旅してから三百年にあたりますので、記念として、その歌仙の初折の表六句と名残の裏六句並びに奥書を2倍に拡大して刻んだ碑を歌仙が巻かれた由緒の地に建立いたしました。
大石田町 |
さみ堂礼遠あつめてすゝしもかミ川 | 芭蕉 | |
岸にほたるを繋ぐ舟杭 | 一栄 | |
爪ばたけいざよふ空に影待ちて | 曽良 | |
里をむかひに桑のほそミち | 川水 | |
うしのこにこゝろなくさむゆふまくれ | 一栄 | |
水雲重しふところの吟 | 芭蕉 |
6月1日、芭蕉は大石田から新庄の渋谷甚兵衛風流亭を訪ね、2泊している。 |
元禄9年(1696年)、天野桃隣は尾花沢を過ぎて大石田で休息、酒田へ下る。 |
一のしに大石田へ出て加賀屋が亭に休足。爰より坂田への乗合を求下ル。 |
蝉鳴や空にひつゝく最上川
『七番日記』(文化10年6月) |
明治26年(1893年)8月7日の正午頃、正岡子規は大石田に着いた。 |
七日晴れて熱し。殊に前日の疲れ全く直らねば歩行困難を感ず。 何やらの花さきにけり瓜の皮 賤が家の物干ひくし花葵 三里の道を半日にたどりてやうやう大石田に著きしは正午の頃なり。最上川に沿ふたる一村落にして昔より川船の出し場と見えたり。船便は朝なりといふにこゝに宿る。 ずんずんと夏を流すや最上川 蚊の声にらんぷの暗きはたごかな |
明治40年(1907年)10月9日、河東碧梧桐は大石田を訪れた。 |
一栄というのは盲人で名字は高橋通称を平四郎というた。川水は土屋某というて屋号をアカシヤという土地の旧家であった。一栄の宅というのは、最上川に沿うた当時は茂った芦の中にあった。二人とも檀林のまね位しておったのが、芭蕉を迎えて始めて悟入したものらしい。など種々言ひ伝えられた事がある。アカシヤは一家滅絶して今は何の跡も残っておらぬそうである。 |
紫陽花肘折より来る |
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又会へる話頭冬近し最上側 |
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大石田感懐 |
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一巻の開眼を思ふ夜寒かな |
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小 集 |
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吉原に美女売りし里や稲筵 | 紫陽花 |
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稲筵おらが在所は猿芝居 | 月光 |
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雲足の西に早さよ稲筵 | 閑哉 |
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村に陣を構ふ仮兵や稲筵 | 碧梧桐 |
昭和31年(1956年)6月5日、高浜虚子は羽黒山に向う途中で大石田を過ぎる。 |
六月五日。自動車で一路羽黒山に向つた。 大石田といふ町を過ぎる。最上川の舟著場であつたので子規はこゝから舟に乘つた。 元禄の昔、芭蕉もこゝに一泊して、誹諧一巻を巻き、こゝから舟に乘つた。 最上川の流れを見ようと、眞砂子は車から下りて家の間の路地に這入つて行つた。 「幅の廣い水が石崖の下を流れてゐた。」 と話した。板谷峠で見た小さい流れが、米澤、大沼等を迂回して、他の諸川を合し、こゝではもう大河となつてゐるのであつた。 |
昭和39年(1964年)、水原秋桜子は大石田を訪れている。 |
大石田 帆舟来てつなぎし柳茂りけり
『殉教』 |