『奥の細道』東 北


小黒崎観光センター

東北自動車道国見SAに芭蕉の句碑がある。


早苗とる手もとや昔しのぶ摺り

句碑の隣に説明が書いてあった。


芭蕉をめぐる道しるべ

早苗とる手もとや昔しのぶ摺り

 「おくのほそ道」をたずねる俳聖芭蕉が元禄2年5月2日(1689年)陽暦6月18日、現在の福島市山口の文知摺観音堂にある文知摺石を眺めて詠んだものです。

 「宿キレイ也」と福島城下を出発した芭蕉と曽良は岡部の渡しを渡ってやってきました。河原の左大臣と山口長者の娘の悲恋物語として有名な文知摺石は、そのころは地中深く埋もれていました。それは往来の人々がここで麦の葉を摺るので、この巨石を地中深く落したのだと聞いて、芭蕉は「さもあるべきこと」とこの句をつくったのです。娘虎女の悲しい物語と、このあたりで田植をする娘たちの姿が、重なって見えたのでしょう。

蝉が鳴いていた。


 東北自動車道古川ICから国道47号(北羽前街道)に入り、江合(えあい)川に沿っていく。


国道47号(北羽前街道)沿いの小黒崎観光センターに車を停める。


あらためて小黒崎観光センターにある芭蕉像の写真を撮る。


平成元年6月吉日と書いてあった。

芭蕉像の脇に案内板がある。


 南部道遥にみやりて岩手の里に泊る。小黒崎・みつの小嶋を過て、なるこの湯より尿前の関にかかりて、出羽の國に越んとす。

素龍本おくのほそみち

小黒崎観光センターの向かいにある山が「小黒崎」。


まだ7月なのに薄が穂を出していた。


 素龍本『おくの細道』は能書家素龍が清書した本で、現在敦賀市新道の西村家にあり、重要文化財指定。芭蕉自筆の『奥の細道』が発見されるまで、芭蕉の原稿に最も近いものとされていた。

 十五日小雨ス右ノ道遠ク難所有之由故、道ヲカヘテ、宮、かぢハ沢、此宿ヘ出タル、各別近シ。此間、小黒崎・水ノ小島有。名生貞(ミヤウサダ)ト云村ヲ黒崎ト所ノ者云也。其ノ南ノ山ヲ黒崎山ト云。名生貞ノ前、川中ニ岩島ニ松三本、其外小木生テ有。水ノ小島也。今ハ川原、向付タル也。古ヘハ川中也。宮・一ツ栗ノ間、古ヘハ入江シテ、玉造江成ト云。今、田畑成也。

『曽良随行日記』

註が書いてある。

右ノ道トハ中新田、小野田。門沢(関所有)ヨリ尾花沢ニ至ル道。

 「右ノ道」とは現在の国道457号(羽後街道)から鳴瀬川沿いに国道347号(中羽前街道)行き、鍋越峠を越えて母袋街道を通り尾花沢に至る道ということになる。


宮ハ池月、かじは沢ハ現在鳴子町内鍛冶谷沢ナリ

 芭蕉は「遠ク難所有之由故」、国道47号(北羽前街道)で「中山越」、県道28号尾花沢最上線を通り、山刀伐峠を越えて尾花沢に至る。

この山刀伐峠が難所であった。

 あるじの云にたがはず、高山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて夜る行がごとし。雲端につちふる心地して、篠の中踏分踏分、水をわたり岩に蹶て、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出づ。

尿前の関跡へ。

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