松尾芭蕉は、元禄2年(1689年)6月16日(現・8月1日)に象潟を訪れ、3日間の滞在の間舟で潟巡りを楽しんでいます。 「おくのほそ道」の象潟のくだりに、次のように記されています。「先能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、……」 どのようないきさつで、いつのころから「能因島」と呼ばれるようになったかはっきりしていません。 元禄14年(1701年)、ときの領主六郷氏に提出された「島守届」には「めぐり島 願誓坊の墓あり 浄専寺」とあり、これが能因島と考えられています。願誓坊とは、浄専寺一世のことといいます。また、寛政3年(1791年)に汐越町(象潟町の古称)奉行への届出にも「めぐり島 浄専寺」とあります。ほかに躯々島(くくしま)などの呼び名もみられます。 しかし、寛政7年(1795年)の汐越町奉行への届け出には「能因島 浄専寺」とみえて、公に「能因島」の呼称がこの頃つかわれたのでしょう。 本来の呼称は「めぐり島」であったものが、もともと伝えられていた能因法師伝承を踏まえて、いつとはなしに美化される形で「能因島」となったのではないかと考えられております。 |
羇旅、出羽の国にまかりて、きさかたといふ処にてよみ侍る |
世の中はかくても経けりきさ潟の海士の苫やを我宿にして |
能因嶋 能因法師 |
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世の中はかくてもへけり蚶潟の |
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あまのとまやを我宿にして |
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九月小望月の比こゝにやすらひたまひしよし |
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かの法師落着方や後の月 | 呂丸 |
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象潟能因閑居をうらやむ 蚶潟に我巣も作れ友千鳥 |