元禄2年(1689年)5月2日(陽暦6月18日)、芭蕉が文知摺石を眺めて詠んだもの。 寛政6年(1794年)5月、京都の俳人一無庵丈左房が文知摺を訪れ、句会を開催したおりに句碑を建立したそうだ。 |
かつてこの地は、綾形石の自然の石紋と綾形、そしてしのぶ草の葉形などを摺りこんだ風雅な模様のしのぶもぢずり絹の産地だった。 |
『奥の細道』
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「里の童部」が「昔は此山の上に」あった「此石」を「此谷に」つき落とした教えてくれたというが、とてもつき落とせるような石とは思えない。 |
河原左大臣とは源融(みなもとのとほる)のこと。源融(822−895)は嵯峨天皇の皇子で、源姓を授けられ臣籍に降下。872年左大臣、河原院という豪邸を営んだので、河原左大臣とも言う。宇治の別荘は後の平等院。 |
河原の左のおほいまうちぎみの身まかりてのち、か の家にまかりてありけるに、しほがまといふ所のさ まをつくれりけるをみてよめる |
きみまさで煙たえにししほがまのうらさびしくもみえわたるかな |
みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに亂れそめにし我ならなくに これは河原の大臣の歌なり。しのぶもぢずりといへるは、みちのくにゝ信夫の郡といふ所に亂れたるすりをもぢずりといふなり。それをこのみすりけるとぞいひ傳へたる。所の名とやがてそのすりの名とをつゞけてよめるなり。遍照寺のみすのへりにそのすられてありしを、四五寸ばかり切り取りて故帥大納言の山庄の御簾のへりにせられてありしかば世の人皆けうぜし。 |
元禄9年(1696年)5月、福島城主堀田正虎は顕彰碑を建立。 元禄9年(1696年)、天野桃隣は文知摺石を訪れ、句を詠んでいる。 |
福嶋より山口村へ一里、此所より阿武隈の渡しを越、山のさしかゝり、谷間に文字摺の石有り。 ○文字摺の石の幅知ル扇哉 |
元禄13年(1700年)、堀田正虎は出羽山形に移封。 享保元年(1716年)5月6日、稲津祇空は常盤潭北と奥羽行脚の途上文知摺石を見ている。 |
福島にとまり、六日はいからへ村より五六町行、岡辺の渡しをのり、半里余東の麓にしのふ摺の石あり。苔蘚翠色にして九尺計あり。むかしは絹を摺たるよし。今は石の面は下になりて、背面のみ臥るかことし。 |
叱と打て鹿子にもせよ石の面 | 北 |
元文3年(1738年)4月21日、田中千梅は松島行脚の途上、文知摺石を訪ねている。 |
是より文知摺石を尋ねてしのふ摺文知摺といひいひ行ば五十邊(イガラベ)と云里の半に石碑を立て其道を教ゆ山口の里と聞て分入ほとに毛知須利の観音立給ふ其前に長壹丈三四尺横八九尺はかり成石なかば土に埋れて苔ふりたり昔はうへ成山際に立てりしか旅人の群来て此石を心見るに麦艸を荒しぬるを悪ミて山よりつきおとしたれハ石の面下タざまに成て臥たりしとやさも有ぬへし |
延享4年(1747年)、横田柳几は武藤白尼と陸奥を行脚し、文知摺石を訪れている。 |
毛知須利石 三章 |
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黒塚に姫百合さきぬ君か代は | 虎杖 |
姫百合もうつふき連や信夫摺 | 柳几 |
松の葉もこほすや石の忍ふ摺 | 白尼 |
宝暦2年(1752年)、白井鳥酔は文知摺石を見ている。 |
○文字摺石 いつの世の人の業にやとしはしはうらみて 裏見るや摺れぬ石の肌寒し |
宝暦2年(1752年)、和知風光は『宗祇戻』の旅の帰途、文知摺石で句を詠んでいる。 |
文字磨石 もしすりやさつと一刷毛しくれ哉 |
宝暦5年(1755年)5月17日、南嶺庵梅至は文知摺石で句を詠んでいる。 |
文知摺の命もミせる覆盆子哉 |
宝暦13年(1763年)3月28日、二日坊は文知摺石で句を詠んでいる。 |
五十辺より文知摺石を見に、桑畑を分入る |
尽せしな蝶々の羽も忍ふ摺 | 坊 |
宝暦13年(1763年)4月、蝶夢は松島遊覧の途上、文知摺石を訪ねている。 |
安達が嶽の裾をめぐりて、しのぶの山ふかく、もじ摺の石もじ摺の石と尋ねもて行ば、苔むしてふりたる石の面、さも有ぬべし。かしこに観自在立せ給ふ。霧に埋れし堂の扉に、洛の亡友臘舟が手して、 もじ摺や誰ふところの片しぐれ と落書せし墨の色、幽に残りたり。さらぬだに、旅の心の一度はかれが行脚の昔をしたひ、一度はいづくの土や我をまつらんものと涙もろなる。 |
明和6年(1769年)4月20日、蝶羅は嵐亭と共に忍山・文知摺石に案内された。 |
卯月廿日晴天福島出立。子洽・楮白・南楚し |
のぶ山文字摺石を案内せんと各先にすゝミて |
若葉して昼の人目やしのぶ山 | 嵐亭 |
此けしき持て何とて忍山 | 蝶羅 |
山口むらにて |
石の背をたゝく水鶏やミだれ摺 | 子洽 |
みじか夜を女草男草やしのぶ摺 | 嵐亭 |
岩藤をわらびもミだれしのぶずり | 蝶羅 |
さわらびも草に戻りてしのぶずり | 仝 |
文字ずりやほたる三ツ四ツミだれぞめ | 仝 |
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