〇三日 天気吉。新庄ヲ立。一リ半、元合海。次良兵へ方へ甚兵へ方ヨリ状添ル。大石田平右衛門方ヨリも状遣ス。船、才覚シテノスル。
一リ半、古口ヘ舟ツクル。合海ヨリ禅僧ニ人同船、清川ニテ別ル。毒海チナミ有。是又、平七方へ新庄甚兵ヘヨリ状添。関所、出手形、新庄ヨリ持参。平七子、呼四良、番所ヘ持行。舟ツギテ、三リ半、清川ニ至ル。酒井左衛門殿領也。
『曽良随行日記』 |
元禄9年(1696年)、天野桃隣は最上川を下り、清川関所のことを書いている。
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此川筋坂田迄二十一里、川の中、船関四ヶ所アリ。尤大石田宿よりの手形、右の所々にて入ル。能聞繕乗べし。なぎ沢・清水・古口・清川、此四所なり。
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宝暦10年(1760年)4月21日、山形の俳人雨声庵山皓は清川の旅籠に泊まった。
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清川に着て今宵は旅篭屋に入りぬ。相宿に芝居なる者の卅人ばかり、終夜三味せん引。ばくち打いとさはがしきに、我は伴ふ人もなければ、片住なる小座敷に木枕を友として宵より臥しぬ
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生薪の馳走もありて蚊やりかな
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明治26年(1893年)8月9日、正岡子規は最上川を下り清川で陸に上る。
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漸くにして清川に達す。舟を捨てゝ陸に上る。河邊杉木立深うして良材に富む。此處戊辰戦争の故蹟なりと聞きて、
蜩(ひぐらし)の二十五年も昔かな
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明治40年(1907年)10月12日、河東碧梧桐は本合海から最上川を下り清川で上陸した。
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清川上陸
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にわか雨も冬の近さや西風も
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清川小学校には加藤楸邨書の芭蕉句碑があるはずだが、雪でわからなかった。
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後日、写真を撮りに行った。

五月雨を阿ツめて早し最上川
昭和31年(1956年)、建立。
昭和31年(1956年)6月5日、高浜虚子は羽黒山に向う途中で清川を訪れている。
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芭蕉は清川といふ處で舟をあがつたものらしい。私等もその芭蕉の下りたといふ舟著場らしい跡を見た。
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平成21年(2009年)3月、清川小学校閉校。
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