天下の俳諧をまっすぐ進み、風雅の誠をきわめるため俳聖・松尾芭蕉は弟子・曽良を伴い「おくのほそ道」行脚の旅に江戸を出立した。元禄2年(1689年)3月27日(新暦5月16日)である。
二人は春日部〜須賀川〜福島〜石巻を経て、出発から45日後、平泉視察の宿泊地となる一関に入る。この解説板の前を通り、大雨の中、地主町の宿に向かった。一関は芭蕉最北の宿として2泊した町であり、研究家にとっては“二夜庵”のある町として広く知られている。
曽良日記と研究資料によって一関入りの状況を描いてみると、5月12日、登米を立っておよそ10キロ米から雨が降り出し、花泉町涌津で強雨となったので馬に乗る。金沢〜大門〜飯倉〜南光病院わき〜関ヶ丘上〜カッパ崖(この辺一帯の俗称)〜吸川〜大町と進むが、ほとんど山と坂ばかりであり、雨の強さも、“合羽モトオル也”の大雨であった。
翌13日は平泉へ趣き夕刻一関に帰る。14日、一関を出立し大町〜台町〜宮沢〜宮城県岩出山町と歩く。この年芭蕉46歳、曽良41歳であった。
二人はその後、裏日本を旅し全日程5ヵ月余の行脚の末に著した“おくのほそ道”はわが国俳諧詩集の聖典といわれる名著となり、最北の宿となった一関にとって名誉なことである。
寄贈 小野寺新一郎
企画 社団法人 一関青年会議所