安達が原も近ければ。黒塚を尋ぬ。傳へ聞きしは。岩屋疊み上げて。日月の光を隱し。洞口苔深く。鬼も住みけむ有様なりと聞きしに。さにはあらで。少しの木立有て。切石の壇のやうなるが。二つ三つ有るのみなり。陸奥名取郡黒塚といふ所に。重之か妹尼と成て住むと聞きて。平兼盛。
みちのくのあだちが原の黒塚におにこもれりといふはまことか
と詠みし。彼の尼の住みける礎の跡なるよし。鬼。御尼の通じたるを誤りたるなるべし。
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寛保2年(1742年)4月13日、大島蓼太は奥の細道行脚に出る。10月6日、江戸に戻る。
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黒塚
桑子さへ齒音おそろし木下闇
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延享4年(1747年)、武藤白尼は横田柳几と陸奥行脚し、安達原の岩窟を一見している。
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安達原の岩窟を一見して
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黒塚に姫百合さきぬ君か代は
| 尼
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寛延4年(1751年)秋、和知風光は『宗祇戻』の旅で黒塚を訪れた。
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安達原黒塚にて
黒塚はまた昼なから秋の風
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宝暦2年(1752年)、白井鳥酔は黒塚で句を詠んでいる。
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○黒塚 安達か原に人肌藥師といふあり別當は今に祐慶といふとそ
黒塚やまことしからぬ女郎花
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明和元年(1764年)、内山逸峰は黒塚を訪れ、歌を詠んでいる。
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明るひ、安達郡黒塚を見ばやとたどりつゝやゝ至てみれば、ひろさ十四五間四方にして、高さ三四丈もあらんか、のこらず大岩にて、あゐ(ひ)だあゐ(ひ)だをくゞりありくやうなる所もあり。昔は岩屋にて有しが、今は破れうがちたる物と見えたり。
黒塚やめに見えぬ鬼もこもるらんむかしを残す岩のしたかげ
苔むしし岩かげくらき黒塚やさこそは今も鬼こもるらん
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明和6年(1769年)4月17日、蝶羅は嵐亭と共に安達が原を訪れ句を詠んでいる。
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安達が原黒塚
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黒鴨もこもるか塚のそのあたり
| 蝶羅
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黒塚や枳殻の角ハ花の時
| 仝
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鬼百合は剛力どもが詠めかな
| 嵐亭
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明和7年(1770年)、加藤暁台は『奥の細道』の跡を辿り、安達が原で句を詠んでいる。
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安達が原
黒塚や蚋(ぶと)旅人を追ひまはる
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明和8年(1771年)6月7日、諸九尼は安達が原の岩屋に案内された。
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七日 元宮の青龍師をとふ。また二本松の一声上人を尋まい(ゐ)らせけるに、安達が原の窟(いはや)みよとて、案内者を添らる。阿武隈川をわたりて、御寺に帰る。
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安永2年(1773年)、加舎白雄は黒塚を訪れた。
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安達が原の黒塚をたづね入しにあやしのいはやあやしの小家こゝかしこに重元のいもうと君すみ給ひしことふるきふみに見へたるをおもひ出て
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くろつかやきぬうつ女住まじる
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寛政3年(1791年)6月2日、鶴田卓池は安達が原を訪れ句を詠んでいる。
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安達原
昼顔に身をうつ蜂のいかり哉
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鬼塚の婆ゝとは見えぬ紙子哉
みちのくの鬼住里も桜かな
『七番日記』(文化11年2月) |
一茶が訪ねてきたわけではない。
昭和2年(1927年)10月、小杉未醒は「奥の細道」を歩いて、黒塚を訪れた。
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橋一つ渡つた處に、4、5軒の部落、其處に一本の老杉あつて、高さ一間ほどの塚の上に立つ、即ちみちのくの、安達が原の黒塚なるもの、そのかみ草木生ひ茂つて遠く望めば黒々と見えたで此名あるか、杉の木の下に二尺ほどの立札、朱色に塗つて白字で達筆に黒塚と記してある、その朱も白も古び燻んで見えた。
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昭和41年(1966年)11月、阿波野青畝は安達ヶ原を訪れている。
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照り昃る安達ケ原の寒き石
『旅塵を払ふ』 |
「黒塚」の隣にあったのが平兼盛の歌碑。
みちのくの安達ヶ原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか
歌碑だとは思わなかったので、写真は撮らなかった。
後日、写真を撮った。

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