よみ人しらず |
みちのくのあさかのぬまの花かつみかつみる人に戀ひやわたらん |
みちのくの淺香の沼のはながつみかつみる人に戀しきやなぞ かつみといへるはこもをいふなり。かやうの物も所の名も所にしたがひてかはれば、伊勢の國あしをば濱荻といへるが如くに、陸奥國にはこもをかつみといへるなめり。五月五日にも人の家にあやめをふかで、かつみふきとてこもをぞふくなる。かの國にはむかし菖蒲のなかりけるとぞ承りしに、このごろは淺香の沼にあやめをひかするは僻事とも申しつべし。 花がつみめならぶ人のあまたあれば忘られぬらむかずならぬ身は これはかく申すまじけれど、はじめの歌にまぎるれば、かきて侍るぞ。このはながつみは、花などつみいるゝこなめり。 |
文明19年(1487年)、道興准后は安積山で歌を詠んでいる。 |
是より田村といへる所に罷りける道すがら、さまざまの名所ども多かりけり。いひすてし歌など記すに及ばず。あさかの沼にて、 はなかつみかつそうつろふ下水のあさかの沼は春深くして あさか山にてよめる ちりつもる花にせかれて浅か山浅くはみえぬ山のゐの水 |
元禄2年5月1日(西暦1689年6月17日)、松尾芭蕉と曽良は『奥の細道』紀行で、ここ安積山を訪れている。 「安積山」は『万葉集』に詠まれている歌枕として有名で、芭蕉はここで「花かつみ」を尋ね歩いている。 『奥の細道』には次のように記されている。 「等窮が宅を出て五里計、檜皮の宿を離れてあさか山有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈比もやゝ近うなれば、いづれの草を花かつみとは云ぞと、人々に尋侍れども、更知人なし。...」
郡山市 |
明治26年(1893年)7月22日、正岡子規は安積沼を見に行く。 |
二十二日朝、淺香沼見んとて出でたつ。安達太郎山高く聳えて、遥かに白雲の間に隠約たり。土俗之を呼んであだたらといふ。 短夜の雲をさまらずあたゝらね 郡山より北すること一里餘、福原といふ村はづれに長さ四五町幅二町もあるべき大池あり。これなん淺香沼とはいひつたへける。小舟二三隻遠近に散在し漁翁さを(※「竹」+「高」)を取て畫圖の間に往來するさま幽趣筆に絶えたり。 |
明治39年(1906年)10月11日、河東碧梧桐は「山の井」について書いている。 |
花かつみというものに種々の説があってその物の不明であるように、安積山というにも種々の考証があって、どの山であるかが判然とせぬ。奥の細道に「等窮の宅を出て五里許檜皮の宿をはなれてあさか山有」と記しておるのは、土俗の口碑によったのであろう。郡山の西一里余「あさか山影さへ見ゆる山の井に」とあるその山の井の跡という者があるけれども、もとより信拠するに足らぬ。昔このあたり総て「あさか」と称えておって、奥州街道は安達太良連山一帯の峰づたいにあったらしい形跡がある。今の安達太良が「あさか山」で猪苗代湖が「山の井」でないか、という説もある。 |
大正14年(1925年)7月8日、荻原井泉水は安積山を訪れている。 |
山の中腹に碑が立っている、上ってみると あさか山かげさへみゆる山の井の 浅き心を吾がおもはなくに という采女の歌が刻してある。山は丈の低い草がその肌を蔽うて、松の木がばらばらと疎らに立っている。
『随筆芭蕉』(浅香山と黒塚) |
等窮が宅を出て五里計、檜皮の宿を離れてあさか山有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈比もやゝ近うなれば、いづれの草を花かつみとは云ぞと、人々に尋侍れども、更知人なし。沼を尋、人にとひ、「かつみかつみ」と尋ありきて、日は山の端にかゝりぬ。
『奥の細道』(安積山) |
享保元年(1716年)5月3日、稲津祇空は常盤潭北と奥羽行脚の途上浅香山を通る。 |
日和田宿はつれに松浦さよ姫造営の蛇骨の地蔵堂あり。いふかし。浅香山は道の東に仮山のことく峠に松一木、旅人ねかひあれは紙を結ひてあさからぬ心をむすふ。沼は西の方山間にあり。かつみはあやめを所のならはしにてこの名をよふよし申ぬ。 |
元文3年(1738年)4月、山崎北華は『奥の細道』の足跡をたどり、淺香の沼に着く。 |
岩瀬の森を過ぎて。淺香の沼に着く。彼の翁のかつみかつみと求め給ひし。我も亦尋ぬれども。里人は知らず。花かつみとは菰(まこも)の事なる由。又あやめといへる説あれど。苅といふなれば菰なるべし。淺香山は道の右の邊り。高からぬ山なり。頂に松一木あり。往来の人立寄り。枝に紙を結び付て。男女の縁淺からず結び逢はん事を願ふとなり。 淺香山麓の草を敷島の道知顔に踏分るかな。 と打詠じ。我ながらをかし。 |
寛保2年(1742年)4月13日、大島蓼太は奥の細道行脚に出る。10月6日、江戸に戻る。 |
花かつみを尋て 里人はわすれ草とも花かつみ |
延享2年(1745年)、望月宋屋は「奥の細道」を辿る旅に出て、「花かつみ」を句に詠んでいる。 |
淺香沼 冬枯にいづれと分ん花かつみ |
延享4年(1747年)、横田柳几と武藤白尼は陸奥行脚で「花かつみ」を尋ねている。 |
翁の尋ね残されし花かつみを糺さむと沼のほとりを |
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かなたこなたと見めくれと更にそれそとしるへの草 |
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もなくたゝ折から咲るものには |
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かつみとは猶おほつかな華あやめ | 几 |
駅路の右手に浅香やまあり無下に過んも口おしけれは |
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かの山の井をたつねのほりて |
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今もその影や浅香の山清水 | 尼 |
芭蕉や山崎北華、横田柳几が尋ねても分からなかったのだから、本当のことは分からない。 |
寛延4年(1751年)秋、和知風光は『宗祇戻』の旅で浅香沼を訪れた。 |
ひそた村東称寺後山間に浅香沼有今は田となりて跡かたもなし海道に蛇骨堂さよ姫の御影有山の内に蛇かふり石有棚木のさくらあり |
名計や稲苅のこる浅香沼 むかしおもふ棚木の桜紅葉して |
宝暦2年(1752年)、白井鳥酔は浅香沼で「花かつみ」を尋ねている。 |
○淺香の沼 今は田となりて沼はかたちはかり殘れり花かつみは太藺(フトイ)に似たるものにして苅て用なしと田苅の男の答ふ 稲苅の鎌にはしらす花かつみ |
宝暦13年(1763年)4月、蝶夢は松島遊覧の途上、安積山を訪れている。 |
阿武隈川打わたれば、岩瀬の杜なり。浅香の沼は田と成て、早乙女のうたひつれたる声賑はしく、浅香山は影さへ見えぬ小さき山なり。山の井は是より遙の山陰なりといへば、立もえよらず。 |
明和7年(1770年)、加藤暁台は『奥の細道』の跡を辿り、安積で句を詠んでいる。 |
浅香にて かつ色やかつみかけ行負具足 |
明和8年(1771年)6月6日、諸九尼は「花かつみ」を見に浅香沼に行く。 |
六日 雨晴れぬれバ立出て、花かつミ生ふときゝし浅香の沼をみる。きのふの雨に水まさりて、いづれをそれと引わづろ(ら)う。 花かつミうづミて水の濁けり |
安永2年(1773年)7月、加舎白雄は「奥羽紀行」の旅で安積山を訪れた。 |
日和田の駅より高倉へゆく道のかたはらに安積山たちけりあさかの沼はかしこの東勝寺いへるみてらのうしろにありとつげけるまゝに 浅香山かつ見てゆかん沼の秋も |
寛政3年(1791年)6月2日、鶴田卓池は浅香山を訪れている。 |
壱り十一丁杉田 壱り十八丁本宮 弐り十二丁 日和田 浅香山 あさかの沼 みちのくのあさかの沼の花かつみかつミる人に恋やわたらん 春野のあさかの沼にあさりしてかつミの下葉ふみしだくなり 浅香山かげさへ見ゆる山の井のあさくも人を思ふものかハ あやめ草引手もたゆく長き根のいかであさかの沼に生けん
『奥羽記行』(自筆稿本) |
寛政12年(1800年)8月25日、松平定信は安積山を訪れている。 |
廿五日 陰る。安積山をみる。こゝらにあさかの沼あり。人をやりて、こもの根なんどとらせたり。これをなん花かつみと云侍るやと、たづねしかば、 みちのくの淺かの花に生ふ草の名さへも今はかつ亂れけり |