『奥の細道』


〜室の八嶋〜

糸遊に結つきたる煙哉

東北自動車道栃木都賀JCで北関東自動車道に入り、壬生(みぶ)ICで下りる。


  この辺りは地図には出ていない新しい道路が出来ていて、分かりにくい。


下野や室の八島に立煙思ひ有とも今こそは知れ


   法性寺入道前のおほきおほいまうち君内大臣
   に侍ける時、十首歌よませ侍けるによめる
源俊頼朝臣
けぶりかと室の八島を見し程にやがても空のかすみぬるかな

   摂政右大臣に侍ける時、百首歌よませ侍ける
   に、五月雨の心をよめる
源行頼朝臣
五月雨に室の八島を見わたせばけぶりは波なみのうゑ(へ)よりぞたつ

   室の八島をよみはべりける
藤原顕方
絶えず立つ室の八島の煙かないかに尽きせぬ思ひなるらむ


   崇徳院に百首歌奉りける時
藤原清輔朝臣
朝霞深くみゆるや煙立つ煙立つ室の八島のわたりなるらん

   女につかはしける
藤原惟成
かぜふけばむろのやしまの夕煙心の空に立ちにけるかな


   下野国にまかりける人に
前中納言定家
立ち添ひてそれとも見ばや音に聞く室の八島のふるき煙を

   返し
蓮生法師
思ひやる室の八島をそれと見ば聞くに煙の立ちやまさらん

前参議忠定
恋死なば室の八島にあらずとも思(おもひ)のほどはけぶりにも見よ


   室の八島見にまかりける人の誘ひ侍けるに、さはる事ありて
   申つかはしける
藤原親朝
煙なき室の八島と思ひせば君がしるべに我ぞたゝまし

『続拾遺和歌集』

東武宇都宮線野州大塚の近くに大神(おおみわ)神社がある。


鬱蒼とした森に包まれた神社である。

大神神社は延喜式内社

奈良県桜井市にある大神神社の分霊を祭る。

大神神社は我が国最古の神社だそうだ。

 また、大神神社は下野惣社である。惣社とは参拝の便宜のため、数社の祭神を一ヵ所に総合して勧請した神社のこと。

 永正6年(1509年)、柴屋軒宗長は室の八島を訪れている。

 室の八島近き程なれば、亭主中務少輔綱房伴ひ、見にまかりたり。まことにうち見るよりさびしくあはれに、折しも秋なり。いふばかりなくて発句と所望せしに、

   朝霧や室の八島の夕煙

夕の煙、今朝の朝霧にやとおぼえ侍るばかりなり。なほあはれに堪へずして、

   東路の室の八島の秋の色はそれとも分かぬ夕煙かな

人々もあまたたりしなり。


 室の八嶋に詣す。同行曾良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一躰也。無戸室(うつむろ)に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見(ほほでみ)のみこと生れ給ひしより室の八嶋と申。又煙を讀習し侍もこの謂也」。

 元禄2年(1689年)3月29日(新暦5月18日)、芭蕉が訪れた「室の八嶋」は大神神社にある。

 曽良の「木の花さくや姫の神」は静岡県富士宮市にある富士山本宮浅間大社の祭神。大神神社の祭神は大物主大神(おおものぬしのおおかみ)

神様のことはよくわからない。

 「無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見のみこと生れ給ひしより」は『古事記』に、「即ち戸無き八尋殿(やひろでん)を作りて、その殿内に入りまして、土もて塗り塞ぎて、産ます時にあたりて、其の殿に火を箸けてなも産ましける。」とあるのによる。

 ますますわからなくなるが、木花咲耶姫が隙間をすべて壁土で塞いだ無戸室に入り、産気づいたところで室に火を放ち、炎の中で無事に三柱を産み落としということらしい。

 三柱は彦火火出見命(ひこほほでみこのみこと)、火須勢理命(ほのすせりのみこと)、火蘭降命(ほとほりのみこと)

 鈴木三重吉の『古事記物語』が分かりやすいが、「火遠理命(ほをりのみこと)は又の名を日子穂々出見命(ひこほほでみのみこと)」というのでは、全くわけが分からない。

 「煙を讀習し侍もこの謂也」は、不思議な煙が立ちのぼっていたことから、「けぶりたつ室の八嶋」と詠まれ、東国の歌枕として都にも聞こえた名所であったことをいう。

煙たつ室の八嶋にあらぬ身はこがれしことぞくやしかりける
   大江匡房

いかでかは想いありとも知らすべき室の八嶋のけぶりならでは
   藤原実方

暮るる夜は衛士のたく火をそれと見よ室の八嶋も都ならねば
   藤原定家

ながむれば淋しくもあるか煙たつ室の八嶋の雪の下もえ
   源 実朝

芭蕉の句碑がある。


糸遊(いとゆう)に結つきたる煙哉

「糸遊」はかげろうのこと。「結ぶ」は「糸」の縁語。

この句は『奥の細道』にはない。曽良の『俳諧書留』による。

絲遊に結つきたる煙哉
   翁

あなたふと木の下暗も日の光
   翁

入かゝる日も絲遊の名残哉(程々に春のくれ)

鐘つかぬ里は何をか春の暮

入逢の鐘もきこえず春の暮

『俳諧書留』

 享保元年(1716年)4月11日、稲津祇空は奥羽行脚の途上早見晋我・常盤潭北と室の八島に立ち寄っている。

十一日、早見晋我名こりをしたひて送らる。先室の八島に立よる。村を惣社といふ。社の右に八の小島あり。煙をもつてその名たかし。今は水かれ烟たゝす。島塁々として神さひ森樹かうかうしく見ゆ。源重行か京の使にをしへたるも昔に覚ゆ。

呼返す飛脚や杉のかんこ鳥

肝心の鮓にさめたりムギコ(※「麥」+「曲」)めし    潭北


 元文3年(1738年)3月22日、山崎北華は江戸を立ち『奥の細道』の足跡をたどり、室の八島に詣でている。

明れば。室の八島を尋ね詣づ。木立ふりて神さびたるさま。いと殊勝(すさう)なり。しげれる森の内に。いかなる人の作れるにや。回り回りて池を掘り。池の中に島と覺しきを。八つ殘したり。八島といふ名にめでてなせしなるべし。年久しき業とも見えず。おかしき事を構へたるものかな。此御神は。木の花咲や姫にてましましける。往昔より。煙を歌によみ習はし侍る。我も。

   一くもり室の八島のたば粉かな

と云捨て。烟管腰にさし。小倉川といふを渡り。壬生に懸り。稲ばの里。親抱の松を見る。


 寛保2年(1742年)、佐久間柳居は室の八島で句を詠んでいる。

   室の八島にて

けふは又つゝしの伊達をさくや姫


 宝暦5年(1755年)6月5日、南嶺庵梅至は「室の八嶋」のことを書いている。

六月五日快晴にして御山を跡に見奉り惣社村室の八嶋の方を遠見す往昔火火出見の尊の住給ふ處とかや木華咲や姫の謂有しより古哥にも煙の言葉を用詠とかや今日は八嶋も丘と成りて八社立せ給ふとかや

青葦や八嶌に戦く風の跡


 宝暦13年(1763年)、蝶夢は松島遊覧の途上、室の八島を訪れている。

佐野・天明を出て、惣社村、室の八島の明神に参る。木だち物ふり、宮立おくまりたり。池の形せし叢に、かたばかりの八ツの小島有りて、各小祠います。神さびわたりて、いと殊勝也。何とやらん法楽の句奉りしも、かいわすれぬ。


 明和6年(1769年)4月、蝶羅は嵐亭と共に室の八島を訪れて句を奉納している。

   室八嶋奉納

神さびて麦の穂波の八しまかな
   嵐亭

森々とわか葉もけぶる宮居哉
   蝶羅


高桑闌更も句を詠んでいる。

煙たへて久しき宮の茂り哉


与野の俳人鈴木荘丹も室八島の句を詠んでいる。

遙拝に里は小春の茶の烟


 大正14年(1925年)7月1日、荻原井泉水は室の八島で芭蕉の句を見ている。

私は境内をあるいて見た。たいして広くはない上に、竹藪の大きな竹が境内の方へニョキニョキと出しゃばったままに捨ててある。そこに句碑が一つ立っていた。

   糸遊に結びついたるけむりかな   芭蕉

 これは『奥の細道』には載せてないが、その折の芭蕉の作なのである。句に「けむり」というのは、文に「煙を讀習はし侍るも…」とある如く、ここが歌枕として烟の名所だからである。

『随筆芭蕉』(日光を指して)

日光例幣使街道へ。

『奥の細道』に戻る