『奥の細道』
〜城山公園〜
小山城は城内に祇園社が祀られていたことから、祇園城と呼ばれたそうだ。 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めによって後北条氏が滅びると、時の祇園城主小山氏も城を追われ、祇園城も廃城となった。 慶長5年(1600年)7月24日、徳川家康は上杉景勝征伐のため小山に到着。西軍による伏見城攻めを知る。 慶長5年(1600年)7月25日、小山評定で山内一豊は真っ先に掛川城を家康に提供すると発言し、東軍はただちに陣払いして関が原に向かった。 慶長13年(1608年)、家康の側近であった本多正純が3万石で城主となったが、元和5年(1619年)本多正純が宇都宮に転封になると、再び廃城。 元禄2年(1689年)3月29日(新暦5月18日)、芭蕉は間々田を出発、小山を通って「室の八島」に向かった。 |
『奥の細道』の記述はないが、『曽良随行日記』には、次のように書かれている。 |
一 廿九日 辰ノ上尅マヽダヲ出。 一 小山ヘ一リ半、小山ノヤシキ、右ノ方ニ有。 |
元禄9年(1696年)7月7日、天野桃隣は『奥の細道』の跡をたどる旅の帰途で小山に泊まり、七夕の句を詠んでいる。 |
小山に宿ス。七夕の空を見れば、宵より打曇、紅葉の橋も所定めず、方角を知べきとて、月を見れば影なし。力なく宿を頼、三寸(みき)求め、牽牛・織女に備へ、間なくいたゞきてまどろみぬ。 ○又起て見るや七日の銀河 |
元文3年(1738年)4月14日、田中千梅は松島行脚の途上、小山の宿に入る。 |
明れハ十四日小山の宿に入小山の判官代々乃旧地也古城の跡ハ町の西にあり |