明治11年7月、徳川慶勝公の命により舊尾張藩士は遥に波濤を凌ぎて此地に渡り原始林を伐り氷雪猛獣と闘して此地を拓く。而してこゝそ開墾第一の鍬を下したる所なる記念の爲に此碑を建つ。 |
八雲附近。 秋風や秣の山の果もなく |
八雲たつ出雲八重垣つまこみに |
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八重垣つくる |
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その八重垣を |
この歌は古事記に載っている須佐之男命の歌で、日本最古の和歌とされています。 徳川慶勝公は開拓の地に平和な家庭豊かな郷を創ろうと願い、この歌より「八雲」と命名されました。 この碑は八雲の発展を祈り愛町の精神を培って欲し いと願う町民の善意を結集して建立されました。 筆をとって下さったのは慶勝公の曽孫であります。 |
かや刈ると谷地にいりたち |
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けふもまたわが手な末は |
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血に染りつつ |
弟彦は、豊臣恩顧の家柄で代々尾張藩に仕えていた角田家の六代目新三郎の二男として天保11年(1840年)に名古屋に生れ、幼いときより漢学や本居宣長の流れをくむ国学を学び、和歌に秀でていました。 明治維新の時には、勤王派の金鉄党に属し、藩主徳川慶勝公の命を受けて京都御所の警護に当ったり、密使・斥候などに活躍し、華頂宮殿下の御近習に抜擢されたこともありました。 明治2年(1869年)、徳川家小納戸役福家知事に就任し、師植松有園の長女苗子を妻に迎えましたが病気となり、翌年に役を辞し帰農しました。 明治11年(1878年)、徳川慶勝の内諭を受け、北海道開拓移住者の導き役として遊楽部の開墾試験場に骨を埋める決意を固め、移住継続者の心をふるいたたせ、同年9月20日に遊楽部の人となりました。 以来、開拓に貢献すると共に開墾のかたわら、歌会を開いて和歌の指導を行い、明治11年から大正5年(1916年)の失明するまで2万数千の和歌を中心として『胆振日記』を書き残して、大正9年(1920年)に81歳の生涯をこの地で閉じました。碑の歌は かや刈ると谷地にいりたちけふもまたわが手な末は血に染りつつ は、明治11年10月24日、翌年に移住する人々の屋根用の萱を刈っている時の作とです。
八雲町教育委員会 |
徳川義親さんは、先考慶勝卿・義禮卿の遺志を継ぎ、半世紀余終始易らぬ愛情をもつて、この町を育てられた。 今年、創業88年、徳川さん80歳の誕生の日に深い感謝と喜びと将来への夢をいだいて、この像を建てる。 |
大正10年から11年にかけて欧州の農村事情を視察した徳川義親侯はスイスの農民が冬期間の副業として木彫熊を製作しているのに注目し、1個買い求めた。 翌年、義親侯は、こうもり傘の骨を研いだノミで八雲の農民達に木彫熊の彫り方をおしえ、出来た作品は買いあげる約束をしたところ、酪農家の伊藤政雄がスイス製をモデルにして製作し、大正13年3月に開催された徳川農場主催の「第1回農村美術工芸品評会」に出品した。 これが北海道における木彫熊第1号で、その後、農民達は「八雲農民美術研究会」を結成し、徳川農場内のこの場所に羆を飼育してもらうと共に、講習会などを開催して作品の技術向上に努めたので、わが国の代表的観光土産品として推奨されるに至り、現在でも伝統は維持されている。 |
この碑は、木彫熊制作を推進した徳川農場の事務所跡である国立療養所八雲病院敷地(独立行政法人国立八雲病院)に八雲町百年を記念して建立されました。当時は、「町立徳川公園」(宮園町128番地)として町民に開放されていましたが、病院の医療整備のため、昭和56年より自由に立ち入ることが出来なくなりました。このため。木彫熊制作を奨励した徳川義親侯の銅像のあるここに碑を移設し、木彫熊の歴史と文化を顕彰することとしました。
八雲町教育委員会 |