野口雨情作詞 |
本居長世作曲
赤い靴 はいてた 女の子 | 今では 青い目に なっちゃって |
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異人さんに つれられて 行っちゃった | 異人さんの お国に いるんだろう |
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横浜の 埠頭から 船に乗って | 赤い靴 見るたび 考える |
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異人さんに つれられて 行っちゃった | 異人さんに 逢うたび 考える |
この童謡は留寿都村に実在した女性の娘をモデルに、大正10年、詩人野口雨情が作詞、11年に本居長世作曲発表された。 物語は明治38年、幼い娘を抱いた未婚の母が木枯の吹く函館にたどり着いたことに始まる。母は静岡県有渡郡不二見村(現清水市)出身の岩崎かよ、娘はきみ。 当時台頭しつゝあった社会主義運動の一つ「平民農場」が原子基を指導者として留寿都村八の原に開かれ、運動に情熱を傾けた青森県出身の鈴木志郎がこの農場で岩崎かよと巡り会い、結婚する。厳しい開拓地へ幼な児を連れて行けなかったかよは、この子の養父安吉と相談の上、きみを函館の米人宣教師C・ヒュエット夫妻に預けた。が、その後母と子は二度と会うことが無い。 平民農場は厳しい気候や重なる災害に遭い、明治40年に閉鎖。鈴木夫妻は札幌に出、志郎は北鳴新報に入社して、野口雨情一家と共に一つ屋根の下で暮らした。かよは娘のきみがヒュエット夫妻と一緒にアメリカに渡ったと思い込み、雨情夫人に境遇を語ったことが後年雨情の作詞につながる。 娘の安否を気にしていた岡そのさん(志郎とかよの娘)が昭和48年、童謡のモデルは実姉であると新聞に投書、報道機関は協力して発掘に乗り出した。特に、北海道テレビの菊地寛氏はアメリカまで赴き調査をして結果、きみは病のために渡航せず、明治44年9月に東京麻生の施設で9才の命を了えたことが判明。 当時の開拓生活は大層苦労が多く、きみと同様の人生を送った子どもがたくさんいたと思われる。「赤い靴」はその鎮魂歌ともいえるだろう。 |
留寿都村の開拓は、明治4年に東久世長官の命により、3戸が移住してきたことによりはじまる。その後、明治30年7月1日に虻田村より分離、この場所に真狩村戸長役場が建てられた。 当時の真狩村は、現在の留寿都村、真狩村、ニセコ町、喜茂別町を含む広大な地域であり、その中において留寿都村は行政の中心的役割を担った。そして、明治34年に狩太村(現ニセコ町)、大正6年に喜茂別村(現喜茂別町)、大正11年に真狩別村(現真狩村)をそれぞれ分村した後、大正14年に村名をアイヌ語の「ル・スツ(道が山のふもとにあるという意味)」から、留寿都村と改称し現在に至る。 厳しい風雪に耐え、幾多の苦難に対峙しながらも、秀峰羊蹄山に見守られ豊かな自然の恵みを受けて、ふるさと留寿都村は農業と観光の地として発展を遂げてきた。 開村100年を迎えるにあたり、郷土の礎を築いた先人たちの偉業を讃え、村の歴史を支えてきたこの地に記念の碑を建立する。 留寿都村 |
開拓が緒についた明治の頃、ここ留寿都にもユートピア社会づくりをめざした「平民農場」が産声をあげました。童謡「赤い靴」のモデルとなった女の子の母親もその中にいて入植仲間の誠実でたくましい青年と結ばれましたが、厳しい開拓暮らしを前に、ぎりぎりの決心を迫られた母は3歳の幼子をアメリカ人の宣教師に託しました。激しい労働にもかかわらず乏しかった秋の実り、農場の暮らしは楽にならず離農者が相次ぎ、この一家も札幌へ出ました。そこで出会ったのが、若き日の野口雨情でした。 別れ別れになっている母と子の思いを胸に刻み、後年、発表した詩に曲がつけられました。 赤い靴 はいてた 女の子 異人さんにつれられて行っちゃった… 子を思う母、母を慕う子。別れ別れになった母と子ゆかりの地、留寿都に建てられた「母思像」は今も母の姿を追っています。 幾多の人々の苦難の歴史が留寿都村の礎です。私たちは本村開拓者たちの功績に感謝するとともに、開拓の試練のはざまで、わが子の幸せを願い続けた母親の気持を偲び、優しい心の村づくりをめざしています。娘を案ずる親心を「母の像」に託し、歌に秘められた歴史のひだと優しい心の在りようを永遠に語り継いで行きます。 かつて開拓者を苦しめた厳しい自然も、今は移ろいゆく季節にその彩を変え人々をなごませ、夢ふくらむ思いを育んでいます。 この地が往事を偲び、語らう憩いの場となりますよう切に希っています。 留寿都村 |