2022年〜北海道〜
石川啄木歌碑〜平岸天満宮・太平山三吉神社〜
六月六日(月曜日)晴。 |
上田の畑からもとの新畑へかけて、今日ぐらゐがもう滿開で、うちのは平均して三分咲きほど。乳いろにうす紅をぼかした花が五輪づゝかたまつて咲く梢から、甘ずつぱい匂ひがして來て、そこらにいつぱいなるのをかぐと、どういふわけか、子供の頃百人堀にそつて山の湖水の方へかよつていたガタ馬車がかよつていた自分の、あのピポ、ピポーと鳴らしてとほる笛の音が思ひ出されて、まだ丈夫だつたお母さんが、いまわたしのしてゐる帆前掛をかけて園内作業をしてうぃる姿が、眼にうかんで仕方がない |
明治40年(1907年)9月14日、札幌停車場に着く。16日、北門新報社の校正係として出社する。 |
石狩の都の外の 君が家 林檎の花の散りてやあらむ |
明治4年曽父・父らこの地に入り、森を伐り、林を焼き、麥粟稗を蒔く。翌5年北海道開拓使の輸入せる林檎苗木を植林。同14年一果をなし、日本林檎栽培の黎明を告ぐ。 爾来この地の林檎栽培は年を追って殷盛、平岸地区にて280余町歩量産25万箱を数う。日本林檎の一大産地となり道内京濱阪神はもとより海波のウラジオストック・シベリヤ・樺太・上海・南方シンガポールなどにその販路を拡ぐ。 大地にはりつき、しぶとく四方に張る老樹の枝、その節々の瘤と傷痕。それはたえまなき自然の暴威に耐えし樹の記録であると共に先駆栽培者百年の苦闘を物語る。 されど村の中央を貫流せる疎水もなく、いぶし銀のごとき花影、秋陽にきらめく果実の枝も残り少く、地域一帯は住宅街と化し、世人に謳われし北国の詩情も偲ぶにとゞまる。 使命おわり歴史のかなたに消ゆるものとしても、なお心つきぬ。よって栽培者集いてはかり、明治40年札幌を訪れ、のち東京に居て遠く林檎園の夏に思いをはす歌人石川啄木の歌一首を碑に刻し、往時を記念する。 |