このモニュメントは、名曲「千の風になって」が、作家の新井満さんによってこの地で作られたことを記念し、建立されました。モザイク状の石は、七飯町特産の安山岩です。いのち・再生の祈りを込めて、円盤の中央はもりあがった形になっています。どうぞ千の風に吹かれながら、美しい景観をお楽しみ下さい。
2008年4月25日 千の風プロジェクト実行委員会 |
明治40年(1907年)4月25日、河東碧梧桐は小樽から函館に向かう汽車の窓から駒ヶ岳を見ている。 |
噴火湾に出た時は非常なガスであったが、雪の殆ど消えた駒が岳は夕月の下に晴晴と見えた。大沼の漣に北海の松島という名を思い出す。 夜八時函館着。始めて蝦夷に渡ったのも二ヵ月前のきょうであった。 |
大正8年(1919年)、小樽商大生だった高浜年尾が丹毒で小樽病院に入院。翌年1月、高浜虚子は見舞いに行った。 |
冬帝先づ日をなげかけて駒ヶ嶽 大正九年一月 小樽にあるとしを、丹毒のため小樽病院に入 院せるを見舞ひ、三十一日帰路につく。青函連絡船にて。
『五百句』 |
昭和6年(1931年)5月23日、与謝野寛・晶子夫妻は小樽に向かう途中で大沼を通る。 |
大沼の絹のおもてに淺みどり五月の木木の刺繍(ぬひとり)ぞする 光りつつ駒が嶽をばつつむなり若き五月のたくましき雲
「北海遊草」 |
昭和6年(1931年)6月4日、荻原井泉水は大沼公園で小舟に乗る。 |
大沼公園は同地水桃吟社同人に案内せられて小舟にて 小宴あり、黙徒は札幌まで同行すと云ふ 大沼と小沼と雨が明るく小雨となる から松芽ぶく影が水に芽ぶく 島を島に橋、木木の芽、島より島へ漕ぐ 漕ぎいでて水に舟をとめて唄ふ
『海潮音』 |
昭和7年(1932年)9月3日、斎藤茂吉は登別から函館に向かう途中で大沼公園を訪れている。 |
片がはに草木生ひつつ駒ヶ嶽の裾野は引きて海に入る見ゆ 駒ヶ嶽の裾野は引きてひろごれば柏の木立幾里つづきぬ
『石泉』 |
昭和8年(1933年)8月17日、高浜虚子は星野立子と旭川行の汽車から駒ヶ嶽をみている。 |
旭川行汽車中。二句。 秋風やポプラの上の駒ヶ嶽 秋風やなべての女の頬被り |
大沼公園は美しい水が限りなく、汽車はまるで水の上 を走つてゐるやうだ。所々、島があり、青い木が茂つて ゐる。何といつても一番に私等の目をうばつたものはを みなへしの美しさであつた。秋草といふ秋草が殆んど両 窓に見えて過ぎて行つたが、女郎花の黄色の濃い美しさ は格別だつた。 をみなへしあしたの原に色濃ゆく
「玉藻俳話」 |
昭和14年(1939年)5月23日、高浜虚子は高木晴子その夫高木餅花等と共に大沼に遊ぶ。 |
五月二十三日。函館湯ノ川、福井旅館。高木の家族等と共に大沼に遊ぶ。 一筋の泡を浮めて春の水 春水に佇みゐしが石に腰 駒ケ嶽浮めてこゝに沼の春 つたひとぶ春の烏や水の上 |
昭和14年5月23日、折柄来函中の虚子は、大沼吟行を思い立ち、糸夫人と五女高木晴子、その夫高木餅花、六女高浜章子、それに内藤松籟、阿部慧月と共に杖を引かれ、この場所にあった旅館「湖月」の2階で小句会が行われた。 その折虚子が一人俳句を作り乍ら湖畔を逍遥した道である。 爾来この地を「虚子の径」と名付け、多くの俳人達が四季折々に訪れ親しんでいる。 |
八月二十日。大沼公園へ。日曜日なので良一さんが先 導で総出で出かける。船を進めて湖を一周する。睡蓮、 薄畳、河骨、鵞鳥、どれもみんな夢のやうに美しい。 入江あれば睡蓮畳花盛り 美しく裾を曳いた駒ヶ岳に真向ひに船が進むことも 度々。 駒ヶ岳の裾曳き秋の湖に消ゆ 遊船に花の会あり花さびた
「続玉藻俳話」 |