明治41年(1908年)1月21日、石川啄木は釧路停車場に降りた。幣舞橋を渡り、浦見町の佐藤国司氏宅へ。 |
九時半頃釧路に着。停車場から十町ばかり、迎えに来た佐藤国司氏らと共に歩いて、幣舞橋というを渡った。浦見町の佐藤氏宅に着いて行李をおろす。 |
明治41年1月21日石川啄木妻子をおいて単身釧路に来る 同年4月5日当地を去るまで釧路新聞社に勤め記者として健筆をふるえり あはれ国のはてにて 酒のみき かなしみの滓を啜るごとくに 当時の生活感情を啄木はこのようにうたう 当時しやも寅料亭の名妓小奴を知り交情を深めり 小奴といひし女の やはらかき 耳朶なども忘れがたかり 舞へといへば立ちて舞ひにき おのづから 悪酒の酔ひにたふるるまでも 漂浪の身に小奴の面影は深く啄木の心をとらえ生涯忘れ難き人となれり 小奴もまた啄木の文才を高く評価し後年旅館近江屋の女将となり七十有余年の生涯を終るまで啄木を慕い通せり 今 此処小奴ゆかりの跡にこの碑を刻み永く二人の追憶の記念とす 昭和41年11月
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平成9年、この地に公園が完成し、愛称名を公募いたしました。 啄木は、東京へ行って作家活動をしたいと言う夢を持ってこの周辺を歩いていたことでしょう。そんな啄木の夢を想って「啄木ゆめ公園」と名づけられました。 |
さいはての駅に下り立ち |
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雪あかりさびしき町に |
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あゆみ入りにき |
啄木は、釧路に着いた2日後には、洲崎町1丁目にあった関下宿(関サワ)の2階8畳間で釧路での生活をはじめました。現在、下宿は残っていませんが、この関下宿で日記や長い手紙を書いておりました。 |
こほりたるインクの罎を |
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火に翳し |
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涙ながれぬともしびの下 |
わが室に女泣きしを |
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小説のなかの事かと |
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おもひ出づる日 |
神のごと遠く |
姿をあらはせる阿寒の山の |
雪のあけぼの |