カムイコタンはアイヌ語でカムイ(神)の居るコタン(里)を意味し、この神はニッネカムイ(魔王)をさします。奇岩怪石が多く舟航の難所だったので、「魔の里」と呼ばれていました。 |
つり橋が最初にかけられたのは滝川から旭川まで上川鉄道が開通した明治31年(1899年)で、明治21年に神居古潭に移住した安藤彦松、同24年に移住した岡和田仁太郎らが協力して建設したといわれています。現在の神居大橋は、漸く神居古潭の景勝が有名になると共に神龍土功組合が灌漑工事の資材運搬のために大正14年(1925年)に建設したもので、現在まで数度にわたって改修されています。 |
明治41年(1908年)1月20日、石川啄木は岩見沢から旭川へ。 |
曇天。十時半岩見沢発。途中石狩川の雪に埋もれたのを見た。神居古譚で夏の景色を想像した。午后三時十五分当旭川下車、停車場前の宮越屋に投宿。 |
大正10年(1921年)8月18日、大町桂月は神居古潭を訪れる。 |
汽車は神居古譚の右岸に通ず。汽車中よりは左岸の山は見えて、右岸の山見えず。左岸の山はさばかりの事なきが、右岸の山は危峯突起して、巨巌を帯ぶ。春の桜、秋の紅葉、鉱泉さへもありて、旭川市民にとりては、唯一の遊楽地也。釣橋をわたりて十数町行けば、石狩河に沿ひて、数十の縦穴散在す。一二間四方、若しくは二三間四方、大小一ならず。コロポツクルの遺跡なりと称す。コロポツクルとは、蕗の葉の下の人の義にて、短小なる人種を意味す。アイヌ即ち旧土人以前に、北海道に住みたる人種なりとかや。
「北海道山水の大観」(神居古譚) |
昭和2年(1927年)、九条武子は神居古潭を訪れる。 |
たぎる瀬の石狩川の白き波神居古潭は曇り暮れぬる
『白孔雀』 |
九条武子(明治20年〜昭和3年)は大正期を代表する女流歌人のひとりで、九条良致(よしとも)男爵夫人として貧しい人々の巡回施療などに尽くした名流婦人として知られています。主な歌集として「金鈴」「白孔雀」等があります。 旭川には大正11年と昭和2年に訪れ、神居古潭でこの歌を詠んでいます。 書は、上田桑鳩によるものです。 |
明治23年、北海道の内陸開発の拠点として旭川村が設置され、明治31年7月16日には空知太(現在の滝川)から旭川まで鉄道が開通した。 当駅は、明治34年12月3日に神居古潭簡易停車場として設置、明治36年5月15日に神居古潭駅となった。 この駅舎および便所は、明治43年に建設された。その後、大正末期から昭和初期にかけて1度ないし2度の増改築が行われたと推定されるが、建設当初の遺構はよく残されている。 昭和44年9月30日、函館本線の納内〜伊神駅間がトンネル化されたことにより、神居古潭駅は廃駅となったが、明治期の数少ない駅舎建築として貴重であることから、平成元年に廃駅時の姿形をもとに復元を行った。 建物は、典型的な小規模駅舎建築であると同時に、明治期における西洋建築意匠導入の特徴を残す数少ない現存例であり、道央・道北の鉄道発展史を考える上でも貴重な例である。
旭川市教育委員会 |
昭和6年(1931年)5月28日、与謝野寛・晶子夫妻は札幌から旭川へ向かう途中で神居古潭を訪れている。 |
大雪の山は見ねども先づしろし神居古潭のえぞ櫻ども まだ知らぬちからも見せて山深き神居古潭を濁流の行く
「北海遊草」 |
神居古潭幻想賦 |
サマイクルに首級うたれし鬼神の身は立ちながら厳になりつ |
刎ねられし鬼神の首と恐れ言ふ向岸の岩もすでに苔むす |
ニチネカムイの足跡ふかき凹穴かたたざまにして昏きをのぞく |
蝶鮫の不意にもよぎるまぼろしを消しがたくゐて鶺鴒あそぶ |
蛇も蜥蜴もここに棲みつぎて王城の址の夏草あをし |
チャシ跡の昼しづかなる木の下に瞑れば聴こゆ矢叫びのこゑ |
コロポックルの裔ほろびたるかなしみか叢低く風はそよげり |