安政5年(1858年)に函館総社八幡宮の神主であった菊池重賢が、蝦夷総鎮守として同八幡宮の末社を石狩に建立することを願い出たことをきっかけに、文久3年(1861年)に仮勧請されました。場所は当時幕府の設置した石狩役所などがあった右岸でしたが、幕末の混乱などにより社殿の建設は進みませんでした。 明治に入り、まちの中心が左岸に移ったため明治7年(1874年)に現在地に移転しました。 当時、この場所には石狩弁天社がありましたが、移転の際には石狩八幡神社がその社殿を利用しました。現在の社殿は明治21年(1888年)に建設されたものが基礎となっています。 境内地には石狩弁天社に由来するものがあります。御影石の鳥居は文化10年(1813年)に弁天社に奉納されたものです。また、平成17年(2005年)まで境内にあった手水鉢「石狩弁天社の手水鉢」は寛政元年(1784年)に弁天社に奉納されたもので、石狩市指定文化財となっています。 |
石狩八幡神社の裏に「無辜の民」の像があるが、石狩八幡神社からは行けない。 「はまなすの丘公園」に行く途中の空き地に車を停め、草地を歩いたところにあった。 |
この地に生き |
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この地に埋もれし |
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数知れぬ無辜の民の |
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霊に捧ぐ |
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1979年 |
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本郷新 |
札幌彫刻美術館々長
札幌市教育委員会文化課長 原子 修 このブロンズ像は、本道出身の彫刻家・本郷新(1905〜1980)の代表作のひとつです。 本郷新は、石狩の海など北海道の大自然をこよなく愛しました。また、ふきすさぶ時代の嵐にあらがって生き抜く名も無きひとびとに、熱いまなざしを注いでいたのでした。 ヒューマニティにあふれた彼の思いは、やがて、昭和45年の「無辜の民」シリーズ15点の連作となって結実し、人しれず生きる無数の民衆の戦乱や干ばつなどで、生きる自由をうばわれていく姿が、悲痛なフォルム(形態)で表現されたのでした。 この「石狩―無辜の民―」像は、はじめ「無辜の民シリーズ」の中の1点として製作された「虜われた人@」(高さ28糎、横36糎、幅48糎)と同型のもので、翌46年、高さ2米、横1.5米、幅3米の大作として、箱根彫刻の森美術館主催の第二回現代国際彫刻展に出品されたものです。 大自然の暴威や人間社会の矛盾によって、がんじがらめに縛られた、ひとりの、無実な生活者のいたましい姿の中に、なおも、生の復権をもとめやまない作者の祈りの歌が、荘重に奏でられています。 昭和56年6月30日 記 |