明治維新後、函館は名実ともに北海道の門戸となり、この北海道の地を踏むものがその第一歩を印したのが東浜桟橋である。 青函航路は、明治6年(1873年)に開拓使の弘明丸によって一般輸送を開始し、明治12年(1879年)に三菱会社が開拓使から青函航路を譲り受け、以後、日本郵船鉄道会社などによって継続されてきたが、明治41年(1908年)に国有鉄道の航路として比羅夫丸、田村丸が就航した。 当時、連絡船は沖に停泊し、客は艀舟でこの桟橋との間を行き来した。この東浜桟橋は、明治4年(1871年)に作られた。 連絡船の桟橋は、明治43年(1910年)2月に若松ふ頭に新設移転したが、その後もこの桟橋は活用され、北洋漁業の根拠地などとしても重要な役割を果たしてきたが、とくに戦前の北洋漁業の発着時には、大変な賑わいをみせていた。 この記念碑は、熊にいかりを配し、開道100年を記念して開拓に渡道した先人の足跡をしのぶと共に、北海道発展の未来を志向して昭和43年(1968年)9月建立されたものである。
函館市 |
野口雨情作詞 |
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本居長世作曲 赤い靴はいてた女の子 |
異人さんにつれられて行っちゃった |
横濱の埠頭 |
から船に乗って |
異人さんにつれられ |
て行っちゃった |
今では青い目になっちゃって |
異人さんのお国に |
居るんだろう |
赤い靴見るたび考へる |
異人さんに逢ふ |
たび考へる |
平成21年(2009年)8月7日、はこだて赤い靴の会建立。
函館市大町の海岸沿いには「新島襄海外渡航の地」碑があった。 ![]() 男児決志馳千里 自嘗苦辛豈思家 却笑春風吹雨夜 枕頭尚夢故園花
新島襄ブロンズ像は岸壁の改良工事のため撤去中だった。 2019年〜北海道〜 ![]() |