函館山は、火山活動や地殻変動により出現し、海流による漂砂で亀田半島とつながった陸繋島です。三方が海に囲まれ、標高約334m、周囲約9mとなっており、別名「臥牛山」とも呼ばれています。 函館山は、道南特有の温暖な気候であることや、昭和20年(1945年)まで約半世紀にわたって一般市民の入山が禁止されていたことなど、植物の生育にとっては恵まれた自然環境にあったことから、約600種の植物が生育し、その約70%が本州北部地域と同種のものといわれています。さらに、四季を通じて野鳥が生息し、また、津軽海峡を南下・北上する渡り鳥の休息地として重要な役割を果たしており、約150種が観察される野鳥の宝庫として、鳥獣保護区特別保護地区に指定されています。 |
函館要塞は明治35年(1902年)の日清戦争終結後に、日露戦争を想定し、津軽海峡の防衛強化を目的に明治31年(1898年)から、約4年間を費やして函館山に大小4か所に砲台が建設されました。 他の多くの要塞が軍港を守ることを目的にしたのに対し、函館要塞は商業港である函館港を守るために建設されました。 日露戦争開戦後、津軽海峡でロシア艦隊が日本の船舶に損害を与えましたが、射程外であったため要塞からは一発の砲撃もされませんでした。しかし、要塞の存在により函館港は攻撃されることはありませんでした。 その後、大砲は撤去されましたが、大正に入り、米国を仮想敵国とし、海空の攻撃から函館と青森の両港を守り、津軽海峡における敵艦隊の通航を阻止するため、津軽要塞として再整備されましたが、戦闘機を相手とした実戦では役に立たず、函館は空襲に遭い甚大な被害を受けました。 函館要塞建設直後の明治32年(1899年)に要塞地帯法が制定され、昭和21年(1946年)に開放されるまでの約47年間、函館山への一般市民の立ち入りは禁止されていました。 |
土用 朝五つ迄曇る 夫より晴天江戸出立後の上天気なり 併し山々白雲おほし 箱館山に登て所々の方位を測 夜も晴測量…… |
伊能忠敬は箱館を出発点として東海岸から根室まで蝦夷地の実測をした。その起点が函館山であった。 |
函館 山の上の旧砲台の片かげり
『野花集』 |