本名 高橋行雄 1930年、山形県生まれ。 尾道商業時代、担任の新開千晩に俳句を学ぶ。のち、山口誓子と秋元不死男に師事。 1978年、俳誌『狩』を創刊主宰。後年「季語の宝庫」と称えた美しい尾道は、鷹羽俳句の揺籃の地。 社団法人俳人協会会長、社団法人日本文藝家協会理事など歴任。昭和・平成の俳壇を代表する俳人。 |
千光寺裏参道に尾道ゆかりの句や歌、小説の一説など刻んだ岩や顕彰碑などをめぐる「文学のこみち」がある。 |
松山の人。俳誌『ホトトギス』を発刊、俳句革新の大先達となった。この句は、日清の役に日本新聞の従軍記者として尾道を通過したときの作で、西国寺の三重塔と天寧寺の海重塔を眺めたものであろう。 |
静岡の人、有名な矢次郎兵衛、喜多八を主人公とした『東海道中膝栗毛』の作者で、山陽道漫遊中の作。 |
盛岡市に生まれる。東大文科大学言語学科卒。元日本学士院会員。『アイヌの研究』『アイヌ叙事詩ユーカラの研究』などの著述がある。この和歌は昭和30年尾道に来遊の際の作である。 |
六時になると上の千光寺で刻の |
||||||||||||||||||||||||||||
鐘をつく。ごーんとなると直ぐ |
||||||||||||||||||||||||||||
ゴーンと反響が一つ、又一つ、又一つ、 |
||||||||||||||||||||||||||||
それが遠くから帰ってくる。 |
||||||||||||||||||||||||||||
其頃から昼間は向島の山と山の |
||||||||||||||||||||||||||||
間に一寸頭を見せている百貫島の |
||||||||||||||||||||||||||||
灯台が光り出す。それはピカリと |
||||||||||||||||||||||||||||
光って又消える。 |
||||||||||||||||||||||||||||
造船所の銅を溶かしたような火が |
||||||||||||||||||||||||||||
水に映り出す。 |
『暗夜行路』より |
宮城県の人。大正元年の秋から同2年の中頃まで、千光寺の中腹に居を構えていた。同10年から大作『暗夜行路』を発表、昭和12年に至って完成した。その寓居は現存している。この碑は、小林和作画伯が、特に筆をとられたものである。 |
海が見えた。海が見える。 |
|||||||||||||||||
五年ぶりに見る尾道の海はなつかしい、 |
|||||||||||||||||
汽車が尾道の海へさしかかると、 |
|||||||||||||||||
煤けた小さい町の屋根が提火のように、 |
|||||||||||||||||
拡がって来る。 |
|||||||||||||||||
赤い千光寺の塔が見える。 |
|||||||||||||||||
山は爽やかな若葉だ、緑色の海向こうに |
|||||||||||||||||
ドックの赤い船が、帆柱を空に突きさしている。 |
|||||||||||||||||
私は涙があふれていた。 |
『放浪記』より |
下関の人。大正5年尾道に移り住んで尾道第二尋常小学校(現土堂小学校)、尾道高等女学校(現東高等学校)を卒業後、上京して、苦をしのいで精進し、昭和4年に出世作『放浪記』を出し、新進作家として大成した。この碑の筆者小林正雄氏は小学校当時の恩師である。 |
東京の人。おとぎばなし作家として児童文学につくした功は大きい。この句は、昭和7年尾道を訪れた際の作この地の風光をよんだ数句の一つである。 |
山口誓子(本名新比古)。明治34年京都に生まれる。東大法学部卒業。三高在学中より俳句の道に入り『ホトトギス』、『馬酔木』を経て、昭和23年『天狼』を主宰。句集をはじめ数多くの著作があり、現代俳句の旗手と言われる。この句は、昭和37年尾道来遊の際を訪れた際、千光寺に詣で宿舎で鐘の音を聴いての作である。 |
松山市の人。高浜虚子と共に、正岡子規門下の二俊秀といわれた。全国を行脚して「新傾向運動」をすすめる途中、尾道を訪れたときの句である。 |
明治43年(1910年)10月23日、河東碧梧桐は千光山に登り、「エイ紅の碑」を見ている。 |
十一月十七日。曇、霰降る。 船の失敗を繰返すのを厭うて陸路を取った。曲りの峠を越えて本郷に出で、本郷より汽車、午後一時過尾の道に着いた。 昼飯後千光山に登った。山上大石の露出しておる様は、石山以上だと一峰がいう。然かも眼下の鶴湾を始め、瀬戸内海の眺望豁達である。三井の眺望を石山に収めたものだとは、やはり一峰の評であった。鐘撞堂のほとりに一基の石碑がある。縦三尺余、幅一尺ばかりの普通の四角な碑である。篆額に「エイ紅碑」の三字が見える。山陽と竹田の二人と、同人則々庵の祖父にあたる人の三人の書が刻してあるという。文章を読むと、ここに挿花の枯死したのを埋めたという来歴が書いてある。山陽通の猶存は、最初の二三行は山陽に相違ない、と保証する。 |
大分県竹田の人。天保5年2月、尾道に立ち寄り滞在数ヵ月、8月1日に橋本竹下、亀山伯秀らと千光寺山に登って、花瓶に挿してたのしんでいた梅の花から石榴の花までの残花を束ねて、玉の岩かげに葬り盃の酒をそそいで詩を作り、石に刻んだのがこの碑で、エイ紅の碑と名づけた。 |
盤石坐す可く松據る可し |
|
松翠缺くる處海光露わる |
|
六年重ねて来たる千光寺 |
|
山紫水明指顧に在り |
|
萬瓦半ば暗くして帆影斜なり |
|
相傳う残杯未だ傾け去らず |
|
首を回らして苦(ねんごろ)に諸少年に嘱す |
|
記取せよ先生曽て酔いし処と |
広島県竹原の人。『日本外史』『日政記』などを著わし、明治維新の大業成就に寄与したところは大なるものがあった。尾道には文雅の友も多く、度々来遊したが、この詩は、文政12年、千光寺山に登ったときの作である。 |