明治29年(1896年)4月、高浜虚子は音戸の瀬戸を訪れている。 |
音戸瀬戸 瀬戸を擁く陸と島との桃二本 |
昭和27年(1952年)5月26日、水原秋桜子は音戸の瀬戸を訪れる。 |
午後広島へわたる。音戸瀬戸にて 明日か刈る島の麥畑相向ふ
『残鐘』 |
昭和25年12月25日、日本を代表する文豪吉川英治氏が、氏の代表作のひとつに数えられる「新平家物語」の取材のためにこの地を訪れた際に残した感懐である。 「君よ今昔之感如何」 これを富士形の石に刻み、平清盛になぞらえた円形の石とともに配し、都と厳島神社の航路の近道として平清盛により切り開かれたとの伝承もある音戸の瀬戸を眺めるこの場所に建立されたものです。 建立にあたっては、吉川文子夫人の監修と、「新平家物語」の挿絵を描いた杉本健吉画伯の指導にあずかって、清盛塚と音戸の瀬戸を真下に望むこの音戸の瀬戸公園の一角にすえられることとなりました。 |
「返せ、戻せ」と高く金扇を掲げる平清盛 呉には開削が困難とされた音戸の瀬戸を清盛が一日で切り開いたとされる「日招き伝説」が残ります。 今や西に沈まんとする夕日に向かって金扇をかざし、再び太陽を招き返したという伝説は、清盛の権勢がいかに強大であったかを、今に語り継いでいます。 当時はこのような難工事に人柱をたてて工事の完成を祈願していましたが、人命を尊ぶ清盛は、人柱に代えて経石を沈めて工事を完成させたと言われています。 こうした音戸の瀬戸開削800年を記念して昭和42年音戸の瀬戸公園にこの像は建立されました。 |