福 山 枯洲より見る南面の福山城 鞆 寒潮に入りて電纜四國へ行く
『一隅』 |
昭和43年(1968年)、山口誓子は明王院門前町であった草戸千軒遺跡を訪れたようである。 |
明王院は真言宗大覚寺派の寺院で、もとは常福寺といい、大同2年(807年)弘法大師の開基と伝える。室町時代には「クサイツ草出 常福寺」の記録が残り、芦田川の中州から掘り出した「草戸千軒町遺跡」は、常福寺の門前町でもあった。江戸時代初期(1655年頃)に水野家三代勝貞が、城下からこの地に明王院を移して現在に至っている。 国宝の本堂は鎌倉時代末期(1321年)、五重塔は南北朝時代(1348年)の建築で、平安時代初期の本尊「木造十一面観音立像」は重要文化財に指定されている。 その他にも、県市の文化財指定を受けた建物や仏像多くあり、市内でも有数の文化財の宝庫となっている。 |
建築様式は、全体的に和様の姿をとりながらも、細部には大幅に唐様が採用されている折衷様で、外陣の輪垂木天井は極めて珍しい手法です。尾道の浄土寺本堂(国宝)とともに、内海地域で最も古い建物として貴重です。 |
この塔は、貞和4年(1348年)佳持頼秀の時、一文勧進の小資を積んで造られたものです。和様の形態をよく整え、手法も雄大で南北朝時代を代表する建築で、全国の指定19棟のうち5番目の古さを誇っています。 |
昭和41年(1966年)11月9日、水原秋桜子は寺泊峠の「鞆の津の沖ゆく帆あり明易き」句碑除幕式の後、明王院を見に行った。 |
式後、徳永さんに案内されて、中道山明王院を見に行く。観音堂と五重塔とが立派に補修されて国宝になっている。住職の丁寧な案内で見学は二時間ほどかかった。
「日記抄」 |
昭和42年(1967年)11月11日、高浜年尾は明王院を訪れている。 |
十一月十一日 備後ホトトギス会 福山市明王院 銀杏散るもとに墳あり五十余り 堂塔の朱ケのしづまり寺小春
『句日記』(第二巻)
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