平安時代末期の武将。保元の乱・平治の乱を経て武士の第一人者となり、1167年には太政大臣に昇りつめた。1179年後白河法皇を幽閉し、翌年には娘・徳子が産んだ安徳天皇を擁立して平氏政権を樹立したが、貴族や寺社などの反発を招き、源頼朝をはじめとする諸国の反平氏勢力の蜂起が広がる中、1181年熱病に倒れ、64歳でその生涯を閉じた。
清盛がいつどのようにして厳島神社を信仰するようになったかは明らかではないが、1146年と1153年に安芸守に任じられ、1160年には嚴島神社に参詣している。以後、清盛の嚴島参詣は記録に明らかなものだけでも十度に及び、1168年には清盛によって現在のような嚴島神社の社殿が造営された。
1164年清盛と平氏一門は法華経などを書写して嚴島神社に奉納した。いわゆる「平家納経」(国宝)である。清盛は「舞楽」を嚴島にもたらし、当時都で盛んに行われていた管絃を奏する遊楽も移したと言われている。これが、現在は嚴島神社の神事として行われている「管絃祭」(旧暦6月17日夜)の始まりである。
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御笠浜に渡辺為吉の句碑があった。

花嫁に見せてやりたい安芸なすひ
大鳥居

5年前は修復中だった。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉は九州遠征の道中で宮島に立ち寄り、戦没将士の慰霊のために大経堂(千畳閣)を建立した。秀吉の死により天井の板張りや正面入口など未完成のままだそうだ。
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慶長3年(1598年)6月8日、石田三成は筑紫下向の途次、厳島へ。 |
八日にぞ嚴島へ舟をよせ給へる、あくる日は此嶋にあそび給ふ、さまざまの神だから共拜覽の中に、法華廿八品を一巻づゝ平家の一門書給へるあり、軸、表紙、紐のかざり今の世にあるべしともおぼえず、分て平相國の筆跡は人々目をおどろかす所也、此外同筆の願書もありき、山のたゝずまひ、浦のけしき、いみじき繪師も筆をよばずやあらん、しほみちきては、はうはうとしたる廻廊の下にたゝへたり、さる時は、鳥居は猶浪の中也、其興に催されて、
みつしおのなかはひたせる神の門や龍の宮古に立つゝく覽、
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厳島神社

五重塔

公園口から無料送迎バスで紅葉谷駅へ。
バスに乗りきれない人もいた。
宮島ロープウエイで下る。
無料送迎バスはいっぱいなので、紅葉谷公園を歩いて下る。
明治29年(1896年)4月、高浜虚子は夏目漱石の第五高等校赴任を送り、宮島に遊び紅葉谷公園に泊まる。
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宮島紅葉谷
部屋に沿ふて船浮めけり桃の花
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漱石は霽月に贈る句を虚子に托している。
松山より熊本に行く時
虚子に托して霽月に贈る〔一句〕
逢はで散る花に涙を濺(そそ)げかし
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明治43年(1910年)7月19日、河東碧梧桐は初めて宮島を訪れた。
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広島に直行して、妻子と甥と親類の老女を迎えた。甥と老女とを帰国せしめて後、妻子を携えて宮島に渡った。故国とは目と鼻の間であるけれども、この島には初ての参詣である。海中の大鳥居は修覆中で足場と葦簀がかかっていた。紅葉谷の岩惣旅館泊。
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明治43年(1910年)11月16日、荻原井泉水は宮島を訪れ岩惣旅館に泊まる。 |
大正元年(1912年)11月14日、志賀直哉は宮嶋を訪れ岩惣旅館に泊まっている。
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五重塔

千畳閣の下から写真を撮ってみた。
千畳閣は五重塔とともに国の重要文化財に指定されている。
大鳥居

すっかり潮が引いて、人が集まっていた。
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