御手洗は古くから水軍の要衝で、鎌倉時代には来島村上氏が警護する“海関(うみのせき)”が設けられていました。また“鶴姫伝説”で知られる大三島合戦では、周防の大内軍と三島水軍とがここで幾度も海戦を行ったとされ、豊臣秀吉の四国攻めでは、加藤清正が御手洗に築城したと「芸藩通志」に記されています。 この石垣は、江戸中期の埋め立て以前は海に面しており、戦国時代の築城の技法である“乱れ築き”であることから、元々は何らかの水軍拠点だったと考えられています。 満舟寺の縁起によれば、平清盛公が安芸守の頃この付近で嵐に遭い、一心に称名を唱えたところ晴天となったため、そのお礼として草庵を建て、行基作の十一面観世音を安置したとされています。 確かな記録では、享保3年(1718年)に観音堂が建立され、徐々に鐘楼や庫裡、石段等が整ったのち、寛延4年(1751年)に真言宗古儀派「南潮山満舟寺」として、藩から正式な寺の認可を受けています。 境内には、この地で没した江戸後期の俳人・栗田樗堂の「烏帽子墓」、芭蕉百回忌の句碑「誰彼(たそがれ)塚」、大名家以外では珍しい「亀趺墓」などがあります。 |
この句は、貞享元年(1684年)芭蕉の「野ざらし紀行」の中にある。 彼は桑名(三重県)から海を渡って郷里に近い熱田(名古屋市)で弟子の桐葉・東藤・工山等に迎えられた。 「この海に草鞋すてん」とまで感激し、満足の意を表した。 暮色ようやく濃くなりかけた頃であろうか、海の面に聞えてくる鴨の声を「ほのかに白し」と叙して、五・五・四・三の新風の第一歩として有名である。 寛政5年(1793年)松尾芭蕉の百回忌にあたり、当地の俳人芦舟・竹子・其桃・鳳州・西坡らによって建立された。 |
『諸国翁墳記』に「誰彼塚 藝州御手洗滿舟寺内 社中建 海くれて鴨の聲ほのかに白し」とある。 享和2年(1802年)8月、樗堂は御手洗を訪れ「翁塚詞」を書いている。 |
鴨の声ほのかに白し と聞へける遺詠を埋ミて一堆の土をよせ一株の柳をうつしつゝここに俳祖の魂を祭りて 誰彼塚 といへるハみたらしの浦なる滿舟密院の境内なりけり そも牛崎の松は潮かかりて月を洗ひ岡辺の小萩した葉うつろひて虫さまさまに秋を吟するもすへて風光おのずら其魂をなくさめさるハなし 予ことし文月の末つかたより月みる月の過る頃まてゆへありて彼院中の前室に旅寓しつゝはからすも旦に草頭の露をひねり夕へに雲霧の香を焚て墓前に終日こゝろを運ふ事是只風雅の因縁むなしからさるにや ちる柳おもへは拾いつくされす 樗堂 壬戌秋八月 |
栗田樗堂は、江戸時代の七俳人の一人です。松山の町方大年寄でしたが、享和2年9月、この地に来て盥江の漁陰と称して専ら風味三昧の生活にその身を委ね、文化11年8月この世を去りました。没するまで12年間旅に出る以外は殆んどこの地にあって風月を友としました。彼の俳風をみると天明期俳壇で中心になって活躍した京都の加藤暁台に師事し、いわば天明期の正統派に属する一人でした。 須磨の猫 あかしの猫に通ひけり 御手洗に移ってからの樗堂は、 一畳は浮世の欲や二畳庵 という句を作って小庵を結んでの暮しであった。 小林一茶とは親交が厚く、一茶の寛政紀行によれば二度にわたって松山の「庚申庵」を訪ねているが、樗堂の死の報をうけた一茶は「三韓人」につぎのように記している。 八月廿二日、叟みまさりぬと聞いて、筆の落つるも知らずおどろく折から、またかたの如くの書とどく、 さながらあの世にさそわるように、そぞろうしろさむく、 此次は我身の上か鳴く烏 一茶 大事の人をなくしたれば、此末つづる心もくじけて、 ただちに信濃に帰りぬ、 彼を訪ねて来島した俳人たちは、非常に多く、一度「樗堂俳諧集」を聞いたものは、その数の多いのに一驚することであろう。著書「萍窓集」は最もよく名を知られている。 |