厳島神社は霊峰弥山を背景に、全面を生みに望む入り江に建つ神社建築で弥山などを御神体として祀り、遥拝所をその麓に配置した日本における社殿建築発展の形式の一つです。
社殿構成は12世紀に平清盛の造営により、当時の寝殿造りの様式を取り入れて整備されましたが、その後焼失し、鎌倉時代に再建されました。海に建つ木造建物として過酷な環境下にありながら、大内氏や毛利氏、豊臣氏などの庇護に支えられて古い様式を今日に伝えています。
また、神社建築に加えて五重塔・多宝塔などの寺院建築も加えられ、神道と仏教との混交を示す文化遺産として、世界に類を見ない景観を造りだしています。世界遺産の範囲は厳島神社境内地と弥山北斜面の431.2ヘクタールが登録され、それ以外の島内が緩衝保護区として設定されています。
|
1996年、厳島神社は文化遺産に登録されたそうだが、知らなかった。
安芸国一宮である。
客(まろうど)神社(国宝)

千畳閣と五重塔が見える。
元禄11年(1698年)5月22日、各務支考は厳島神社に句を奉納。
|
神前奉納
燈籠やいつくしま山波の華
|
宝永2年(1705年)3月、魯九は長崎に旅立つ。途上、厳島神社に句を奉納している。
|
安藝 嚴島奉納
海山の波や若葉のいつくしま
|
享保元年(1716年)、露川は門人燕説を伴って厳島神社を訪れた。
|
嚴島賦
蒼海に獨立して廻り七里の嶋あり、彌山とや。本堂・虚空藏□・三鬼の宮・奥の院、鐘の古さは平宗盛建立と銘に記せり。小宮・小堂、目の行在にあり。麓は本社辨財天、續いて五重の塔・多寶塔すべて一山の寺社數をしらず。百八間の回廊潮にゆられ、左右の町屋甍を並べ、晝の市聲・夜の万灯、船に立て是を見れば、龍の宮古を爰に押出しぬるかとあやしむ。
|
硝子の國や若葉のいつくしま
| 居士
|
|
月凉し回廊波に八重一重
| 燕説
|
|
| |
高舞台(国宝)

延享3年(1746年)、佐久間柳居は宮島を訪れているようである。
|
宮島
夕すゝみうしほのあゆみ運ふ迄
|
明和8年(1771年)4月28日、蝶夢は厳島神社を訪れている。
|
二十八日の朝舟にのるに、風心よくて厳嶋につく。此島の気色をながむるに、うしろは青山峨々として木立くらく、前は白砂渺々として波静によす。本社は中央にありて回廊香の図のごとく左右につらなる。その一間ごとに燈籠をかく。
|
安永6年(1777年)、諸九尼は重厚と厳島に詣でる。
|
今の落柿舎のぬしとゝに、つくしへまか
りける時、安藝のいつきしまにて
千畳に一畳凉し肱まくら
|
安永8年(1779年)、横田柳几は厳島神社で句を詠んでいる。
|
安芸厳島明神にて
香の囿の回廊涼し波涼し
|
天明2年(1782年)、佐々木松後は厳島に詣でる。
|
嚴 島
ひとつ見れはふたつの慾や嚴島
神代からたへぬ御燈の影凉し
|
錦帯橋を訪れ、再び厳島に戻る。
宮島碇泊
鹿の子の軒にかゝむや五月雨
『厳島紀行』 |
東宝映画『連合艦隊』(1981年)では、本郷真二海軍少尉と早瀬陽子は厳島神社の回廊で再会する。
|
能舞台(重要文化財)

文化2年(1805年)10月22日、大田南畝は長崎から江戸に向かう途中で厳島神社を訪れている。
|
名におふ大鳥居は高さ一丈、横五尺ありと云。木の皮をさりしまゝにて削らず、乾に及びて海中にたてり。表の額は嚴島大明神、後奈良院の宸筆。裏の額は伊都岐島大明神、同じ御筆なるべし。御笠の濱の北に舟さしよせて島に上り、回廊のもとをうかゞへば社務棚守氏來れり。
|
文化7年(1810年)元旦、倉田葛三は厳島神社で句を詠んでいる。
|
青空や舞楽を拝むはなの春
|
文化8年(1811年)3月5日、田上菊舎は厳島を訪れている。
|
同五日朝、花の浦より舩出し侍りぬ。安芸の国厳島にて
|
霞酌ん七浦々のわらひつれ
|
文政10年(1827年)6月17日、鶴田卓池は厳島神社を訪れている。
|
十七日 天気ヨシ。
|
伊都岐島大明神、本殿十二間に六間、拝殿十七間餘、祓殿十間に五間、客人ノ宮、平舞台二百坪、廻廊八尺間百八間、御文庫、千畳敷、五重塔、湯立殿、経堂、鏡ノ池、弁(マゝ)当大聖寺、坊十二ケ寺、社家五十軒、海中之大鳥居ハ丸木也。末八抱斗、本社ヲ去こと二丁斗なり。
|
多宝塔(重要文化財)

大永3年(1523年)創建と伝えられる。
嘉永4年(1851年)3月10日、吉田松陰は藩主に従って江戸に向かう途中、宮島に立ち寄る。
|
一、十日 晴。卯後、中井次郎右衛門・中谷松三郎と舟を發して宮島に過る。海程二里餘。島に上りて神祠を拜し、古釜を觀、搭岡に登る。既にして復た舟行すること五里、海田驛に抵りて宿す。
|
嘉永6年(1853年)2月4日、吉田松陰は江戸に行く途中厳島神社に参拝している。
|
四日 晴。早く起き、島に上りて神を拜す。
|
安政6年(1859年)5月29日、吉田松陰は幕府の命により萩から江戸に護送される途中で厳島神社のことを詠んでいる。
|
嚴 島
そのかみのいつきの島のいさをしを思へば今も涙こぼるる
|
五重塔(重要文化財)

応永14年(1407年)創建と言われる。
明治24年(1991年)、正岡子規は厳島神社を訪れている。
|
嚴 嶋
ゆらゆらと廻廊浮くや秋の汐
|
明治28年(1995年)3月、正岡子規は日清戦争に従軍記者として赴く際に広島滞在中、厳嶋を句に詠んでいる。
|
厳 嶋
汐満ちて鳥居の霞む入江哉
|
千畳閣傍らの亀居山に句碑があるそうだが、現在は立入禁止。
明治29年(1896年)、高浜虚子は宮島を訪れている。
|
宮島 三句
春の浜石灯籠の並びけり
春の山筧に添ふて登りけり
回廊も鳥居も春の潮かな
|
明治40年(1907年)、若山牧水は早稲田大学英文科学生の時に宮島を訪れている。
|
青海はにほひぬ宮の古ばしら丹なるが淡う影うつすとき
『海の声』 |
明治40年(1907年)8月7日、与謝野寛、平野万里、吉井勇、木下杢太郎、北原白秋の5人は厳島を訪れた。
|
安芸の宮島駅へ着いたのは、午前四時半、まだ日が上がらぬ。直ぐ船の乗場へ出る。水盤のように平かな海峡だ。紺青色の島に藍色の霧が流れる、空にも水にも流れる。下ノ関丸は五六十噸ばかりの綺麗な汽船だ。吼えるように汽笛を鳴らして錨を抜く。十五分間で厳島に着いた。まだ静かに眠っている山裾に島の人は既に起きている。霧に濡れた朱塗の大廊下を履のままで歩むのは好い心持だ。潮の退いているのは少し口惜しい。
|
明治43年(1910年)1月1日、森鴎外は宮島を訪れ岩惣へ。
|
大阪より宮嶋にゆく夜汽車の中に年を迎ふ。朝宮嶋驛にて下車し、小蒸氣船に乘りて嚴嶋にわたる。工事のために足場を掛けたる大鳥居のあたりには白き靄棚引けり。紅葉谷の岩總に入る。岸に沿ひて石燈籠を立つ。
『明治四十三年日記』 |
大正元年(1912年)11月14日、志賀直哉は宮嶋を訪れ岩惣旅館に泊まっている。
|
廻廊は面白かつた。觀山のガクもあつた。鏡が池のあたりに鶴が四羽ゐた。
千疊敷にのぼる。大きな鹿ゐる。鹿は奈良とチガウ。「祖母の健康爲に」と千九百十二年十一月志賀としてシヤモジをあげた。舞子や藝者等。歩いてる内に雨が落ちて來た。宿へかへる。
[暗夜行路草稿4] |
養父崎神社の沖合で御鳥喰式(おとぐいしき)行われるそうだ。海上に幣串と粢(しとぎ)団子を供え、雅楽を奏すると、雌雄2羽の神鴉(おがらす)が現れ、団子をくわえて養父崎神社に持ち帰るという。
|
知らなかった。
昭和8年(1933年)4月12日、斎藤茂吉は厳島を訪れている。
|
嚴島
わが眠る枕にちかく夜もすがら蛙鳴くなり春ふけむとす 四月十二日
嚴島に一夜やどれば鶯は止まず鳴きたりこゑなつかしも
『白桃』 |
昭和23年(1948年)、富安風生は厳島を訪れたようだ。
|
厳 島
夜著いて朝とく発ちし紅葉宿
『朴若葉』 |
昭和27年(1952年)5月27日、水原秋桜子は宮島に渡る。
|
宮島へ渡る。折から旧暦端午の前日なり 三句
こぞり萌ゆ島山の杉に雨灑ぐ
島人が提げゆく雨の軒菖蒲
浦の舟端午の菖蒲載せて漕ぐ
厳島神社廻廊
夏燕めぐりてかへる丹の柱
『残鐘』 |
昭和28年(1953年)5月、富安風生は宮島を訪れ、岩惣旅館に泊まる。
|
宮 島
廻廊に献じて春の灯かな
『晩涼』 |
昭和42年(1967年)11月17日、荻原井泉水は厳島神社回廊で十五夜の月を賞す。
|
清盛これを見し月か欠くるまえ満ちきわまる。
『大江』 |
昭和45年(1970年)7月、山口誓子は厳島を訪れている。
|
嚴 島
涼しくて倚る海廊の朱の柱
大鳥居より直撃の涼風よ
『不動』 |
平成8年(1996年)、厳島神社は世界遺産に登録された。
2012年〜広 島〜に戻る
