俳 人
大野是什坊
岩手竹中家の家臣。本名は親芳、通称瀬兵衛、号を傘狂・朝暮園・老森庵・風論子・花中人といった。 |
宝暦2年(1752年)、公用側用人を申し付けられ江戸詰となる。 安永9年(1780年)、安田以哉坊より道統を受け、美濃派六世を継承。 天明2年(1782年)2月末、田上菊舎は美濃国不破郡岩手に朝暮園傘狂を訪ね、数日滞在。 天明3年(1783年)5月、田上菊舎は江戸出府の朝暮園を訪ねる。 |
天明4年(1784年)6月、田上菊舎は岩手に朝暮園の帰りを待つ。 |
水無月の比、朝暮園師、吾妻より帰り玉ふ を待うけ侍りて これからぞ汲ん岩出の山清水 |
天明8年(1788年)、致仕。 寛政2年(1790年)3月10日、朝暮園傘狂は京都東山雙林寺で主催芭蕉百回忌取越法要を主宰。田上菊舎も参列する。 |
寛政3年(1791年)3月、寒河江の虚空蔵堂に俳額を奉納。朝暮園傘狂選。 寛政3年(1791年)、不二庵風五百カ日の追善句集『霜の朝』(雪柳庵文和編)朝暮老人傘狂跋。 |
寛政5年(1793年)、田上菊舎は不破の関を越え、再び美濃の大野傘狂邸を訪れた。 |
長府一字庵の主尼、三とせぶりならん朝暮の柴扉を尋ねらるゝにぞ、山海辺にその信を捨られざる事は今さら感じながら、互ひのなつかしさは逢ふての上の言の葉もなく、馴染の山辺に伴ひありきて、そこの木陰、爰の流れに安らひ安らひて |
泉ほど咄(はな)しも涌ぬ夕涼 | 宗師 |
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わすれぬ山に夏は忘るゝ | 菊舎 |
寛政5年(1793年)、是什坊は風廬坊と共に伊良湖に遊ぶ。 寛政5年(1793年)、是什坊と号す。 |
寛政6年(1796年)、『追善弔古々路』(菊舎編)刊。白寿坊序。 享和元年(1801年)、十方庵画山『残夢塚供養』(菊亮編)刊。朝暮園傘狂序。 文化3年(1806年)3月、野村白寿坊は「永観堂連塔」を建立。 |
福岡県吉富町の天仲寺公園にある美濃派の句碑に「くもる程よい空奪ふ桜かな」の句が刻まれている。 |
その魂の草麦に今もかけろハん |