俳 人
横井也有
本名は時般(ときつら)、幼名は辰之丞、通称は孫右衛門。別号蘿隠。野有。半掃菴。武藤巴雀、太田巴静に師事。俳文集『鶉衣』がある。 元禄15年(1702年)、尾張藩士横井時衡の長男として生まれる。 元文5年(1740年)、横井也有は野火留を訪ねて、「業平塚」を見ている。 寛保4年(1744年)2月19日、六々庵巴静は67歳で没。 延享2年(1745年)4月6日、横井也有は第八代尾張藩主宗勝公のお供をして中山道を下る。 紀行文『岐岨路紀行』の一節が山村代官屋敷東門跡の石垣の石に刻まれている。 |
宝暦2年(1752年)6月22日、反喬舎巴雀は67歳で没。 宝暦8年(1758年)、大島蓼太は吉野行脚の途上半掃菴に也有を訪れる。 宝暦10年(1760年)、『七時雨』(横田柳几編)、横井也有序。 明和3年(1766年)、巴笑は木曽の桟に芭蕉の句碑を建立。也有筆。 |
宝暦13年(1763年)6月18日、不之庵木児は75歳で没。横井也有は追悼文を書いている。 |
六ゝ菴に別れ、反喬舎世をさりし其折々の傷(いたみ)ハさることながら、猶此五条坊の健やか、忍山かひなき其世のことどもをも、かたミにいひ出て老を慰むつまともなりしを、名に呼れし蕣のはかなき秋をだに待ず、此水無月の露と消し。惜むべし悲べし。松竹卒に齡を譲らず、桃李もとよりものいはず。そも我けふよりして誰れとゝもにかむかしを語らん。 なき友に泣くや心の羽ねけ鳥 |
明和2年(1765年)秋、加藤暁台は信濃路・武蔵野の旅をする。也有の紹介で鴻巣の布袋庵を訪ねている。 |
此秋、名にしおふ更科の月ミん、それより武蔵野の露をも分けばやと思ひ立てる暁台を送る。其行先の信濃路にハ、我知れる千丈・友梅なるお(を)のこあり。武蔵に布袋庵の主ハ、殊に年来の交あれば、我が一言を伝へて立よらむにハ、仮のやどりをも惜むまじ。行くればよし此陰によりて、心の花のあるじとせよと、陽関の一句を筆して別るゝ衽(えり)にさしいれぬ。 漏らぬ宿お(を)しえ(へ)む月の旅ながら |
明和3年(1766年)、『八橋集』(片水・除来編)蘿隠也有序。 明和6年(1769年)4月、植田古帆、大木巴牛は「松葉塚」を再建。句は也有筆。 |
明和6年(1769年)6月末、蝶羅は奥羽行脚から帰郷。 |
春麗園の主、奥羽の行脚恙なく帰郷せし明る |
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日ハ、文月の朔日なれば |
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先聞くや荻にみやげの風の音 | 也有 |
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名所の露をふるふみのむし | 蝶羅 |
明和8年(1771年)4月の末、木兎坊風石は奥羽行脚に旅立つ。 |
古郷の親友の別れにかれこれととゝ |
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められ卯月の末に発杖す、時に |
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さそたのむ蔭は有へし夏木たち | 蘿隠士 |
明和8年(1771年)、也有古稀の賀。 |
撫松楼迂翁寿詞 古稀をもろこし人は逢ひがたきやうに申はべれど |
千代の数貝まゐ(い)らせよ伊勢の蟹 |
安永元年(1772年)12月、『秋の日』(暁台編)刊。也有序。 |
安永2年(1773年)8月18日から28日まで、横井也有は内津に遊んだ。 |
安永3年(1774年)、三狂庵門人箕輪連中は芭蕉の句碑を建立。也有筆。73歳の時である。 |
安永8年(1779年)3月25日、横田柳几は筑紫紀行の途次、也有を訪れた。 天明3年(1783年)6月16日、82歳で没。 天明7年(1787年)、大田南畝『鶉衣』(前篇)刊。 天明8年(1788年)、大田南畝『鶉衣』(後篇)刊。 |
くさめして見失うたる雲雀哉 | 也有 |
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椎の実の板屋根を走る夜寒かな | 暁台 |
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たうたうと滝の落ちこむ茂りかな | 士朗 |
五六度の後は下駄はく時雨哉 合點して土へはつかぬ柳かな 秋たつや昼寝も桐の枕より 塚に脱ぐ徃来(ゆきき)の笠や時雨ても みしか夜や蚤時鳥明の鐘 青柳や細き所に春の色 木に置て見たより多き落葉哉 平皿に海を縮めてもつくかな すさまじきものや師走の鏡磨 鶯やそつと物干ス椽(縁)の先 明寺の六時を雉子の啼にけり 朧月味噌煮町の匂ひかな 百ちとりひとつにかえて時鳥 あはれ世や麻木のはしの長みじか 数減らて戻る恵ミや池の雁 着つゝまだ馴ぬ袷やかきつばた 昼かほやとちらの露も間にあはす 山はしくれ大根引へく野になりぬ 信濃路は雲間を彼岸參り哉 姨捨てまた遠て來て後の月 |