紀行・日記
『山かつら』(菜窓菜英)
文化3年(1806年)6月17日、菜窓菜英は『山かつら』の旅に出る。28日、身延山を参拝。7月6日、江戸へ。 |
夫、冨峯は登るも馬鹿、登らぬもはか也とハ 鄙俗の口の馬鹿の数に入らんと。 水無月十七吉辰、首途、夜へよりの雨に 日和不定。身寄のものとも荒川迄の見送りに はつかに離別の懐をゝこし、まつ三芳 野を過るとて、 夏蔭や君か方なる松の声 入間川、何某の園圃に望たれと、風交も なく、扇町谷迄馬にて送らる。二本木、 筥根か崎、こゝに上水の源、玉川を渡る。 其塵の光りも鮎の流れ哉 また一つ川を越て、八王子に舎る。 |
十八日朝晴、星布、其たけ等を尋ね、 駒木野の関越て、高尾山を拝し、風流 も中々に尋て、小佛峠に到る。 |
十九日朝晴、歩行より、二瀬越て小猿橋 を過、藤野鈴木孝助の許、道の案内を 聞。俳名百石と言。諏訪の関越、郡内に入、 三ツ四ツ驛を過て猿橋に到る。 |
6月25日、早川漫々を訪ねるが留守。差出の磯を訪れて、芭蕉の句碑を見ている。 |
廿五日晴、小原、早川圓橘漫々を尋ね、 此地、俗八日市場と言。あるし医業の畄主なれハ、 二刻はかりの暑を凌て、風交もやゝ時を 移しぬ。渠(かれ)は若けれともよくたしめる人なん。 夫より東八幡大宮司へ向、川渡りて、 神にもぬかつき、槌むらか宿所にいたる。 俳談しはらくしてより差出か磯をつたひ、 塩の山恵林寺なとは遙に見やり、古哥に 塩の山さし出の磯に鳴ちとり君のみよをハ 八千代とそなく ○芭蕉塚 闇の夜や巣をまとハして 鳴千鳥 書は東江閑人 涼しさや浪も今更千代見草 草丸を訪ふに畄主なれハ、石和に出て泊る。 |
程なく、酒折の宮へまうて奉り、奉納吟、 ○微驅産所を出しより此地名に到る事十日、 即、九夜を過る、あらはゞかりの尊ふ(と)さよと 事書を打ち消して、 日や月や清水結ぶ手結ぶ指 短尺へものして神官の人に頼む。しはらく 風談、酒折の碑の石摺をたまふ。主は 古体の哥詠人也。善光寺へ詣、朝氣の洞氷は 道の傳はるく、残して甲府に到る。柳丁山形屋 源右衛門乙見か宅へ泊る。夜凉も尋て句帳の数とす。 |
廿七日、能日和也。冨士、爰らよりは、やゝひつミて 見ゆ。甲府を出、是より巨摩西郡と言。釜無川 を渡り、穂坂、逸見の御牧なと遠く名のミ、 見のこして藤田村五味宗蔵可都里か許へ 尋ぬ。途中の吟、 昼顔の命はかりよ砂の息 夏旅の浮世忘れな山に川 八ケましやさめて嬉しき土用雨 |
外、堂塔樓閣数を知らず、短き筆の記に 餘れハ、南部六郎の霊といふに詣り、名たゝる 階の急なるを見て、なたらかなる阪路を下り て宿坊に帰る。 |
三日も日和よけれハ、朝立して名に負筥根 を越んと、竹にて製したる丸き駕籠に 打のり、まつ三嶌明神にぬかつき、若身に 誓詞なす時にはなと思ひを発し、ねふりねふり 国堺もしらす、山の頂にのほりぬ。 鳴かすともねむらて通れ関の虫 |
四日晴、猶、筥根山の残りを下りて小田原に 到り、故山を訪て、風交もそこそこなし、酒匂川 となん蓮臺てふものにて渡り、町谷より 雨降山の道とあれハ、したかへるおのこを 代参に走らせ、予はこゝかしこにておこ そかに遥拝し奉り、ひとり案内人を やとひて、たとりたとり、大磯のすくに着、鴫立 沢の菴に立寄、西行上人の杖と言六尺 斗り中に節なし上下二ツのミ也。寛永年 中御下向の時、飛鳥井亜相雅章卿の 御自筆短尺 やよひのころ鴫立沢にたちより侍りて あはれさハ秋ならねともしられけり しきたつ沢のむかし尋ねて 外、縁記と言とちものを貰へハ、こゝに略す。 残る暑やのこる涙に残る杖 |
庵主葛三は行脚の畄守とて暮玖と言 根方尺布の伯父なん人にまミへ(え)、す(し)はらくの もの語して、宿の案内も老か身すから なしくれ、心あり氣なる家に泊る。 こゆるきや旅の柱の一葉舟 |
五日晴、朝は虎子石に目を覚し、高麗寺 を左に拝ミ、故ある篁も見やり、鎌倉 將軍の花見の事なと聞て、さかみ川、 こゝに馬入と言を越、八幡の宮も過、義経を まつりて白籏明神と言、弁慶をあか めては八王子権現とすと。このあたりの神社 併へて遥拝を遂、藤沢のすくに出、方斛 を訪ひしに業といゝ、心と言、一時流行の 人と見ゆ。これか宅にてかのしたかへる男か 帰るを待會とせしより、心に任せぬ俳 談しはらくす。いよいよ梅男も来れハ、立出るに、 親子ともせちに畄めけるも聞かす遊行 寺にまうて、小栗の墓像なと拝ミゆくに 雷雨しけゝれハ、 立や秋遊行の砂の雨さめて やうやうと戸塚に到る。今宵は淋しく 元政か紀行なとよみて、先にまうてし 事も思ひ合せ、鎌倉山、江ノ嶌の風流 を感しるのミにて、此度はもらしぬ。 又こんと柴胡に栞る雨露の影 六日 雨強く、旅情にもつかれけれハ、馬や 駕籠かりて飛かことくに大都会に出、 流行のあいろ見むとて江戸の秋 |