蕉 門

長野野紅 ・ りん

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 豊後日田郡渡里村の庄屋。通称三郎右衛門。志太野坡の門人。りんは野紅の妻。

 元禄8年(1695年)、広瀬惟然は野紅を訪れる。

 元禄11年(1698年)6月14日、支考は雲鈴と野紅を訪れる。

十四日

野紅亭にあそふ。亭のうしろに蓮池ありて一二輪を移しきたりて此日の床の見ものにそなふ。あたかあるしの紅の字を添るに似たり。連衆十六人をのをのこの筋のにほひふかく吾門の風流この地に樂むへし

   廬山にはかへる橋あり蓮の花

此曉ならん野紅のぬし夢もおもひかけぬ事に、おさなき娘の子うしなひ申されし。その妻も風雅のこゝろさしありて、世のあはれもしれりけるふたりの中のかなしさ、露も置所なからん。かゝる痩法師の身にたに子といふものもちなは、いかに侍らんとおもひやるはかりはかなし。

   子をおもふ道にといへる人の言葉も今のうへにおも
   ひつまされて
世の露にかたふきやすし百合の花
   支考

晝かほもちいさき墓のあたり哉
   雲鈴


十四日の月に闇ありほとゝきす
   野紅

面かけも籠りて蓮のつほみかな
   倫女


 元禄14年(1701年)、野紅・りん夫婦は伊賀上野の故郷塚に参拝。

 元禄15年(1704年)11月末、野坡は豊後の日田に吟遊して、長野野紅亭に逗留。

 元禄16年(1703年)、『小柑子』(野紅撰)刊。

 享保元年(1716年)7月、沢露川は燕説を伴い野紅を訪れる。

  居士
萩桔梗無事で咲けりわれもかう
 
 初鴈をろす北のため池
   りん

有明に錢ほしがりの名を請て
   紫道

 手織紬の物にまぎるゝ
   燕説

箱入の梅や小春にひらくらん
   野紅

 雨を通して灘を一のし
   野螢

目のうへの瘤山右は何の嶽
   朱拙


 宝永2年(1705年)3月、魯九は長崎に旅立つ。

   仝 日田野紅亭

ものゝ葉の陰もうつるや夏座敷
 魯九

魚鳥の息を立はや田は植る
 坂本半山
 朱拙

山陰をくつていてたる鵜の火哉
 長野三良右ヱ門
 野紅

一勢をゆられて休む鵜の火哉
    同つま
 りん


元文5年(1740年)12月28日、野紅は81歳で没。

野紅の句

近道をおもひこなしてしくれ哉


行春を閏の花のおぼろかな


牛馬によらしよらしとくれの市


華鳥の物ともいはす囀るか


水仙に尤づけるさむさかな


   住よしの茶屋に遊びて

合点して座敷に通る汐干哉


散雲の下ハ沙汰なきしくれかな

ふらつきの仕合になるすゝみかな


鶯や寺のはさかる市の中


夕がほの行衛もしろし天の河


あるはなをよけてまはるも花見哉


泣て見る皃に色ある涅槃哉


辨當は硯ひとつの花み哉


宝暦7年(1757年)3月21日、りんは84歳で没。

りんの句

雛立て刀自になる也娘の子


稲妻やいたり來たりに夜を明す


のんとりと入日の赤し雉子のこゑ


しがらみの雪踏ちらす千鳥かな


是を見てあそこへゆかん山桜


やまさくら取つくろはぬ一重かな


蓮を見て大竹くゝる螢かな


あの年にもどりて見たき碪哉


朝夕に見る子見たがる踊かな

山茶花や開きはじめの一調子


土あそひはしむる鳥の若な哉


どこぞから引れたがるも花見かな


   人に対して

見れはこそかくハほとくれ糸桜


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