越前出身。両替商三井越後屋(現在の三井住友銀行)の番頭。竹田弥助。別号野馬・樗子。浅生庵。風羅堂。高津野々翁。 |
野坡者。越之前州人。生二商家一。居二武江戸一。蕉門之學者也。一遊二西海一不レ定二其所居一。隨レ師得二炭俵之撰號一。
『風俗文選』(許六編) |
貞亨4年(1687年)、孤屋・其角と歌仙興行。 |
啼々も風に流るゝひばり哉 | 孤屋 |
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烏帽子を直す桜一むら | 野馬 |
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山を焼有明寒く御簾巻て | 其角 |
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貞享4年(1687年)10月末、芭蕉は「笈の小文」の旅に出る。野馬は餞別の句を贈っている。 |
朝霜や師の脛おもふゆきのくれ |
元禄6年(1693年)、芭蕉と野坡の両吟がある。 |
ばせを庵にて |
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寒菊や小糠のかゝる臼の傍 | 翁 |
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提げて賣行はした大根 | 野坡 |
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元禄7年(1694年)、芭蕉と野坡との両吟歌仙がある。 |
むめがゝにのつと日の出る山路かな | 芭蕉 |
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處々に雉子の啼たつ | 野坡 |
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五人ぶちとりてしだるゝ柳かな | 野坡 |
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日より日よりに雪解の音 | 芭蕉 |
元禄7年(1694年)5月11日、芭蕉は江戸深川の庵をたち、上方へ最後の旅する。門人たちは川崎宿まで送り、送別の句を詠んでいる。 |
翁の旅行を川さきまで送りて |
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刈こみし麦の匂ひや宿の内 | 利牛 |
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おなじ時に |
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麦畑や出ぬけても猶麦の中 | 野坡 |
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おなじこゝろを |
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浦風やむらがる蠅のはなれぎは | 岱水 |
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元禄8年(1695年)、許六・利牛と三吟歌仙。 |
参 吟 |
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秋もはや鴈ンおり揃ふ寒さ哉 | 野坡 |
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藁を見てからかゝる屋普請 | 許六 |
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暮の月宿へはい(ひ)れば草臥て | 利牛 |
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元禄8年(1695年)、深川の芭蕉庵で芭蕉の一周忌。許六から芭蕉の画像を贈られる。 |
亡師一周忌に手づから画像を写して、 |
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野坡に贈て、深川の什物に寄附す。 |
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鬢の霜無言の時のすがたかな | 許六 |
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元禄9年(1696年)、野坡は土芳を訪ねる。 |
いかにて やま越てちかつき顔や初さくら |
元禄11年(1698年)、惟然は北陸から東北を旅して江戸に入る。都に帰るにあたり、野坡は送別の句を詠んでいる。 |
送惟然子 |
去年は都の花にかしらをならべ、よめ菜・つくづくしを摘て語り、今年東武の余寒はおなじ衾を引張、雲雀・鶯に句をひらふ。 |
江戸 |
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菜の花や浮世は去年の秬(きび)のうね | 野坡 |
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元禄11年(1698年)、江戸を立ち、膳所の無名庵を訪ねる。11月、長崎に到着。 |
筑前の國へはじめておもむきて 早稲の香や溜めてこぼす松の風 |
元禄12年(1699年)、芭蕉の七回忌に野坡の撰文で長崎一ノ瀬街道に「時雨塚」を建立。 |
元禄13年(1700年)、箱崎の俳人哺川は枯野塚を建立。野坡書。 |
元禄14年(1701年)7月、長崎を去り、江戸へ。途中で去来を訪ねる。 元禄15年(1702年)10月頃、井筒屋安右衛門伊藤佐越方に来留。佐越は野坡の門人となる。 元禄15年(1702年)11月末、豊後の日田に吟遊して、野紅亭に逗留。日田で越年。 |
ふんこの山中に老の春をむかえ侍りて 沙汰もせす此山中の歳ひとつ |
元禄16年(1703年)2月、『すき丸太』(佐越編)野坡序。 元禄16年(1703年)3月12日、哺川の十里庵で野坡送別の句会。 元禄16年(1703年)、『小柑子』(野紅撰)刊。 宝永元年(1704年)、越後屋を辞め、大坂に移住。 宝永2年(1705年)、魯九は長崎に旅立つ。野坡は餞別の句を詠んでいる。 |
津國 難波 |
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美濃の国の僧魯九西国のかた見んよしして尋られ |
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しに予も一度通りたる所もあれハ有増教えぬ |
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実雪のふる日ハ寒くこそあれと聞へ侍るとをり |
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西海の浦つたひ衣ハ汐風に吹ちゝめられ笠は |
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背にはつれそほふる雨に日もくれかゝりてしらぬ道 |
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をとをとをとあゆミゆかむさまもおもひやられて |
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道もよしかつえしうらハ若和布時 | 竹田弥助 | 野坡 |
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宝永5年(1708年)3月末、筑紫行脚に出立。4月1日、黒崎水颯亭。4月半ばに吉井の素児亭に到着。 宝永7年(1710年)10月11日、筑前博多で芭蕉の十七回忌追善歌仙興行。 |
祖翁十七回忌筑前國にて 口きりや峰のしぐれに谷の水 |
正徳4年(1714年)春、凡兆没。 |
凡兆阿圭子を悼 行春や知らば斷べき琴の糸 |
正徳4年(1714年)8月、大風に庵を吹き破られる。 |
葉月九日の大風に、草菴を吹破ら れて 我上に牽牛澄り中の秋 |
正徳6年(1716年)2月13日、露川は門人燕説を伴い西国行脚の途上、難波の野坡を訪れる。6月22日、享保に改元。 |
居士 |
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雲水を鳴や雲雀の三ツ鐡輪 |
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顔はほかめく酒に蕗味噌 | 燕説 |
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帳につく長屋の禮の春は來て | 野坡 |
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享保元年(1716年)、野坡は福山を訪れ、深津の醤油業今津屋達士・酒造業鍵屋由均らの支持を得て、風羅堂を創設。芭蕉を一世とし、野坡は二世と称した。 享保元年(1716年)冬、久留米の西与の許に足を留め、竹野郡塩足村の大庄屋塩足市山邸に長らく滞留した。 享保2年(1717年)7月20日、曲水は不正を働く家老曽我権太夫を槍で殺害し、自らも切腹した。 |
悼膳所曲水 籠舁はかるきを悔む霜夜かな |
享保3年(1718年)1月、『初便』樗野坡跋。 享保3年(1718年)、野坡は筑紫行脚中に直方を訪れる。多賀宮神官青山文雄、直方藩士有井浮風が入門。 享保4年(1719年)冬、塩足村の市山邸を訪ねる。 享保6年(1721年)6月、熊本壺風亭に遊ぶ。8月、門人30余人に送られて熊本を去る。 |
肥陽の門人三十余人を引て廓外に 別るゝ はげみ羽も風もれ多し老の鴈 |
享保7年(1722年)8月16日、野坡は未雷と共に杷木の兎城を訪れたようである。 |
葉月十六日は滄浪亭の名殘にして、 住馴れし庵は新開地の杭にかゝり、 杷木の兎城亭へ赴く、同行二人、未 雷と我也。石櫃といふ宿、其右衛 門かたに一夜の枕をもふけぬ。此 間五里の山中也 十六夜や暫く遠し五里の里 |
享保8年(1723年)8月3日、正秀は67歳で没。 |
享保卯八月三日、正秀身まかりけ るを遅く聞て、京より申遣す 行かえり大津の日なし年のくれ |
享保9年(1724年)3月21、2日、難波市中大火事。農人橋ほとりの寓居類焼。 |
彌生の末浪花の大火に、農人橋の 假菴を逃除れて 風下のさくら侘しきけぶり先 |
享保13年(1728年)、野坡は再び直方を訪れ、弟子たちとに上野の皿山や白糸滝を見物する。 |
皿山ノ瀑布にて 投入て瀧見がほなり折躑躅 |
享保13年(1728年)4月、直方から小倉に移り、程十亭に逗留。5月8日、程十亭を去って長門に赴く。10月3日、難波に帰着。 享保13年(1728年)5月8日、『門司硯』(朝月舎程十撰)。浪華大津浅生菴野坡序。 |
且予かこのたひ肥筑の帰杖をとゝめ、三十余日寐食をともにし、終に門司硯の銘を切て諸рノひろめ侍る。同行馬貞筆をおよかせ扁(編)集のあるしとさためぬ。この道さかりに躬恒・式部のものすきをしたへは、此硯のかはけることなく、筆の命毛全処の風雅もつのれよと、共に一派の風流を導キ、さつき八日馬貞と笠をともにして長門の国へ別れ侍るとて |
片形の月をたよりや根付稲 | 浅生 |
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享保14年(1729年)閏9月、野坡は上京。十三夜は風之の九十九庵にあった。 |
洛の九十九庵にまかりし比、閏長 月十三夜をもてなされて 冬や秋あきの冬しる十三夜 |
享保14年(1729年)、芭蕉三十六回忌。 |
古翁三十六回忌のこゝろを 三むかしや泣口すゝむ納豆汁 |
享保15年(1730年)、廬元坊は西国行脚の途上、浅生庵を訪れる。 |
難波の浅生庵を尋ねて、 |
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花に実に目やなぐさめて夏畑 | 里紅 |
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二百里おくる蚊屋の初門 | 野坡 |
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享保16年(1731年)2月7日、支考は67歳で没。 |
支考死ぬと先うこくなり萩の露 |
享保19年(1734年)秋、野坡は風之を伴い赤間関に下り、小倉へ。風之は熊本に赴く。 享保20年(1735年)、芭蕉四十一回忌に「世にふるも更に宗祇のやとりかな」の真蹟短冊を埋めて「屋土里塚」を建立。 |
元文2年(1737年)9月13日、洒堂没。 |
洒堂悼 我ひとり食の替出すしぐれ哉 |
元文2年(1737年)10月10日、野坡は風律亭で歌仙興行。 元文2年(1737年)閏11月17日、三原からの福山に移り素浅を訪れる。 元文3年(1738年)3月25日、伊勢神宮参詣に出立。 |
内外の神は子共ごゝろに押合て 何事の又詣ふでたしほとゝぎす |
元文3年(1738年)、浅生庵移転のため一時瓦屋町に移る。 |
草庵普請すとて仮に瓦町にうつりて いなつまやなれも浅茅の市茄子 |
元文4年(1739年)4月5日、滄浪亭未雷没。 元文4年(1739年)5月、『ぬれ若葉』(まん女編)浅生老人野坡野坡序。 |
元文4年(1739年)5月、凉袋は瓦屋町の浅生庵を訪ね、入門。 元文4年(1739年)、高津の新庵落成。瓦屋町より新庵に移る。 |
かはら町の市中を出て、高津野に うつりて 裸身に笠着てすゞし菊の苑 |
元文4年(1739年)9月13日、洒落堂三回忌。 |
痰膈といふ病に臥て洒落堂の三 回忌におくり侍る 新米も香を嗅ぐまでや佛並み 又 十三夜雨もつ雲の老が脉 |
元文4年(1739年)10月12日、高津の新庵で芭蕉忌。 |
己未十月十二日高津の庵に古翁を 祭。此翁此津に病發り給ひぬ。我 も今年病ひに臥して、生死の推敲 もさだめがたく人に助け起されて 我を呼ぶ聲やうき世の片しぐれ |
元文5年(1740年)4月14日、野坡の百カ日に「如来塚」開眼供養。 |
元文5年(1740年)5月頃、塩足市山らは野坡追悼の「むすび塚」を建立。 |
宝暦6年(1756年)、野坡十七回忌追善句集『窓の春』(浮風編)。 宝暦9年(1759年)、『野坡吟艸』(風之編)刊。 宝暦11年(1761年)、二十回忌に湖白菴浮風は野坡の墓を建立。 |
明和元年(1764年)10月19日、多賀庵風律は田子の浦の帰途、淺生庵を訪れている。 |
難波津に淺生庵あり後に無名庵といふ野坡翁の住める所也懐旧 ありの実に梨子にさまさま庵さひし |
寄梅恋 ふり袖のちらと見えけり闇の梅 冬空や雨もときれてむら雀 ぼんぼりとまだ日はのこる柳かな 女郎花側の旅寐やかゞ見やま 青葉若葉生衣につゝむ門司硯 女郎花例の旅寐やかゝ見山 猶月影に頭陀の口をひろげて 是ハ一とせ浪花の浅生庵にて いらいらとしてハほろつく月の雨 この比の垣の結目や初しくれ 此ころの垣の結めや初しくれ 盆の月寐たかと門をたゝきけり 盆の月寐た歟と門をたゝきけり かわらふく家も面白や秋の月 みそ塩をはなれきつてや秋の月 十六日夜の色をたとはば梅の花 |