文化6年(1809年)、川角村(現在の毛呂山町大字川角地内)に生まれる。川村碩布の弟子。
明治9年(1876年)4月3日、行庵洒雄は野口有柳邸で客死。
明治12年(1879年)、春秋庵を継ぐ。
明治19年(1886年)、素竹と姨捨に遊ぶ。
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姨捨にて
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膝込に石もぬくもる月見かな
| 七十八翁春秋庵有柳
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石上にのぞみて只伝のむかしをしのぶに
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いまもその衾はさめず山の月
| 六気素竹 並に繪
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明治20年(1887年)8月25日、弘湖七回忌で越生町の梅園神社に弘湖の句碑を建立。
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梅千句之碑
玉垣の外面はうめのはやし哉
権少教正 三森幹雄篆額
七十八翁 春秋庵有柳書
明治24年(1891年)、長野県坂城町の会地早雄神社に芭蕉付句塚建立。有柳書。
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芭蕉付句塚

膝行(いざり)ふ便や姨捨の月
| 翁
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散花に垣根を穿つ鼠宿
| 嵐雪
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明治25年(1892年)11月、碩布五十回忌で越生町上野に碩布の句碑を建立。
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梅翁円満之碑

世の中を降たいらけて雪白し
篆額は権中教正三森幹雄の書。句は権大講義八十五翁五世春秋庵有柳の書。
明治26年(1893年)4月、春秋庵を三森幹雄に譲る。
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同年7月6日、85歳で没。
のちの世へまた見残して月と花
有柳の句
朝よりも夕へにゆかし女郎花
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