俳 人
渡辺雲裡坊
尾張の人。美濃派の俳人。俳諧を各務支考に学び、鳥巣仁の号を与えられる。初号杉夫。別号有椎翁・有椎老人。 享保13年(1728年)3月、尾張から桑名に居を移す。 |
『諸国翁墳記』に「二鳥塚 勢州桑名駅ニ在 杉夫建 冬ほたん千鳥の雪のほとゝきす はせを」とあるが、今はない。 |
元文5年(1740年)8月、雲裡坊は野沢の瀬下玉芝宅に2泊したが、玉芝は折あしく病臥中であった。 |
雲裡坊杉夫先生はじめて茅屋をおとづれ給へるに折ふしおもき病に臥してやうやう相見へ俳席を催ふ事能はず 其菊の匂ひをからん薬鍋
玉芝(いつまでぐさ) |
寛保元年(1741年)、仙台に住む。山本白英の尽力で冬至庵を結ぶ。 寛保3年(1743年)2月7日、芭蕉五十回忌、支考十三回忌追善で宮城県仙台市の榴岡天満宮に芭蕉の句碑を建立。 |
寛保3年(1743年)5月、支考十三回忌追に『桑名万句』(雲裡坊編)自序。 延享4年(1747年)、義仲寺無名庵五世となる。義仲寺境内に幻住庵を再興。 |
延享4年(1747年)10月12日、冬至菴連は芭蕉の句碑を建立。 延享5年(1748年)3月、雲裡坊門人棠雨(どうう)は石巻の日和山に芭蕉の句碑を建立。 |
寛延2年(1749年)、幻住庵跡から義仲寺境内に椎の木を移植して、有椎翁・有椎老人と号した。 寛延3年(1750年)1月13日、前橋の竹令に素輪の号を授与。同年、下仁田を訪れ高橋道斎の家に滞在。 |
寛延4年(1751年)、無名庵に入って五世庵主となる。 寛延4年(1751年)7月、群馬県富岡市の一ノ宮に芭蕉の句碑「旅寝塚」を建立。 |
宝暦4年(1754年)7月、信陽佐久郡連は赤岩弁財天に「恋 塚」を建立。 |
宝暦5年(1755年)、亀掛川軍左衛門(俳名左笠)は雲裡坊の助言を得て芭蕉の句碑を建立。 宝暦6年(1756年)、雲裡坊は五葉庵長瀬素人の招きで来飯。善勝寺で一座千句興行を開く。 |
宝暦10年(1760年)、蕪村は雲裡坊より九州行脚の同行を勧められたが、断る。 |
雲裡坊、つくしへ旅だつとて我に 同行をすゝめけるに、えゆかざり ければ 秋かぜのうごかして行案山子哉 |
宝暦11年(1761年)、『諸国翁墳記』。 |
宝暦13年(1763年)、雲裡坊三回忌で冬至庵止鳥庵連中は仙台の榴岡天満宮に句碑を建之。 |
明和2年(1765年)、追福集『鳥帽子塚』。浮巣庵文素の序。 安永6年(1777年)、雲裡坊十七回忌追善集『桐の影』(巨洲編)。 安永6年(1777年)10月12日、雲裡坊十七回忌で五老峯故貝は笠森観音に雲裡坊の句碑を建立。 |
茶漬くふ官女を見たり星祭 はつかしき山の端もありけりけふの月 初雪や木曽に桜の名は聞す 恥かしき山の端もありけふの月 柳とは見たれと明て柳かな 名をしらぬこそ凉しけれ水艸は 翦鷹の足緒ふり返るしくれ哉 竹きりのへらして行や秋の風 しぐるゝや三上山から瀬田の橋 |