俳 人

筑波庵翠兄
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常陸竜ヶ崎の人。杉野治兵衛。大島蓼太門下。別号道隣。

一茶の『知友録』に「常陸竜ヶ崎 杉野治右衛門 翠兄」とある。

 宝暦4年(1754年)、龍ヶ崎村豪商伊勢屋杉野治兵衛家に生まれる。

 天明元年(1781年)、大島蓼太は龍ヶ崎に招かれ、数日間滞在。同年、『筑波紀行』刊。翠兄序。

 天明2年(1782年)4月8日、要津寺に「芭蕉翁百回忌発句塚碑」建立。



(いしぶみ)に花百とせの蔦植む   雪中庵蓼太

 天明5年(1785年)3月、大島蓼太を迎え、桃の花見。『桃一見』

 天明7年(1787年)9月7日、大島蓼太は70歳で没。

 翠兄は大島完来を招き、河内町長竿にある翠兄の別宅銀雨亭で法要を営んでいる。

寛政3年(1791年)春と推定される翠兄と一茶の連句がある。

ぬる蝶の白きは物に安げ也
   翠兄

 日永に見ゆる芝の捨鍬
   一茶

 文化2年(1805年)正月23日、双樹から手紙が届き、双樹・翠兄・巣兆・国村の句が寄せられた。

正月廿二日出
一書一通 流山双樹 廿三日とゞく

日のさすにはつ音顔なる雀哉
   双樹
永き日に伐すかさるゝ柳哉
   翠兄
(そば)の菜のことに引立かすみ哉
   巣兆
雪前にさらへ込けり芹薺
   国村


 文化3年(1806年)4月13日、一茶は翠兄の母を悼んで句を詠んでいる。

十三日 晴 布川ニ入 翠兄母悼

   今からは桜一人よ窓の前

   今しがた此世に出し蝉の鳴

『文化句帖』(文化3年4月)

 文化10年(1813年)、蓼太の二十七回忌に蓼太の句碑を建立。



たましひの入れものひとつ種ふくべ

『志多良』(文化10年)に「翠兄 改道隣」とある。

文化10年(1813年)10月27日、没。享年60。

 文化14年(1817年)5月22日、一茶は竜ヶ崎から女化原を通り土浦へ。

[廿]二
 晴 竜ヶ崎ヨリ女化原ヲ通土浦ニ出

 稲市村近江屋弥五エ門泊

『七番日記』(文化14年5月)

翠兄宅は訪れなかったようである。

龍ヶ崎市上町の筑波庵跡に嵐雪の句碑があるそうだが、非公開。

翠兄の句

めはり柳つかねて花屋富にけり


日の沈む上に月ありかきつはた

夜桜や坊か碪ハ衣更


日の沈む上に月ありかきつはた


鶯の魂の尾うこく落葉かな


たゞならぬ寒ぞ梅の匂ふ夜は


鳥は寝て月に雨持つさくら哉


春の鐘月のひまより聞へけり


八ツ過の浦さびしくも心天


口笛で人の出て来る袷かな


むけに言ふ桔梗かるかや女郎花


膳だての箸ころげしも花の春


八ツ過の浦淋しくも心天


   筑波峰を窓蓋にもたのむ柴の戸。

八ツ過の浦淋しくも心太


咲ものに里はして置く桜哉

けふも赤しきのふも赤し烏瓜


三ヶ月はものゝ紛レに見たる哉


三日月ハものゝ紛れに見たるかな


古雛に胡粉の過し余寒哉

小窓から顔の見ゆるも春めきぬ


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