俳 人

梅田徳雨


下総国葛飾郡関宿の人。造化庵。

 延享元年(1744年)12月2日、江戸浅草に祇徳を訪ねて門人となる。祇徳は江戸浅草の札差。祇空の門人。祇空の庵跡に芭蕉像を安置し、芭蕉堂とした。

此造化庵のあるしハ先江都祇徳の高弟也、このあたりの若俳をもやゝすゝめてその外俗士にも教けるか、民家教訓袋といふ一集を著せしとて一部恵まれたり、いと尊ふとき翁なりけり


 宝暦8年(1758年)、出羽三山・山寺・松島に遊ぶ。

 宝暦10年(1760年)11月3日、野木町の野木神社に「千鳥墳」を建立。『千鳥墳』(徳雨編)刊。



一疋のはね馬もなし河千鳥

 宝暦13年(1763年)、『松島游記』刊。

 明和8年(1771年)、『民家教訓袋』。

 明和9年(1772年)、徳雨は柳几を巴波川の蛍狩りに案内する。

安永10年(1781年)5月、没。

天明4年(1784年)、徳雨三回忌。

うくひすや朝な朝なの布施に何   荘朗

徳雨の句

十帰りや花さく毎に名は高し


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