俳 人

藤井鼎左
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備後の人。大坂に住み、菅沼奇淵に俳諧を学ぶ。別号花屋庵。

鼎左 大坂安堂寺町御堂筋西へ入南側   花屋庵


鼎左 一号桃之本 大坂南久太郎町南御堂前芭蕉翁終焉之地 花屋庵

 鶯も老ては松のはやしかな   鼎左


 文政10年(1827年)、南林山瑞麟阿闍梨代は芭蕉の句碑を再建。鼎左の筆。



疑なうし保のはなも浦の春

 文政10年(1827年)9月10日、鶴田卓池は長崎で難波の鼎左を訪れている。

十日 難波ノ鼎左訪ふ。是ハ花屋庵ノ弟子也。水神社ノ常麿来る。


 嘉永4年(1851年)3月15日、鼎左と一具「芭蕉翁奧の細道松島の文」の碑を建立。



 嘉永4年(1851年)、松本本町の高美宣智は芭蕉の句碑を建立。筆者は鼎左かと思われる。



しはらくは花の上なる月夜かな

 嘉永6年(1853年)、『海内俳家人名録』(花屋庵鼎左・五梅庵舎用編。惺庵西馬校合)護持院梧青序。

井原市の両山寺にある芭蕉の句は鼎左の書。



明治2年(1869年)10月4日、68歳で没。

鼎左の句

出はなれて袴かへすや小松ひき


花咲と花に飛こむ烏かな


鶯やふたツとおもふこゑの間


のせて置くほとは葉も有り蕗の薹


山の井や覗けば昼も秋の月


雪も地におかぬ往来や若夷


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