俳 人
市原多代女
多代 一号晴霞庵 奥州須賀川 市川氏女 花やかに年はよりたし飾り海老 七十八才多代 |
安永5年(1776年)、須賀川の豪商市原家に生まれる。 |
文化3年(1806年)、夫の有綱が病没。夫の没後、俳諧を雨考に学ぶ。 |
文化8年(1811年)、雨考のはからいで鈴木道彦に入門。 文化11年(1814年)、雨考は『青蔭集』を刊行。多代女序。成美跋。 文化12年(1815年)6月、乙二は一具と須賀川のたよ女を訪ねる。 文化13年(1816年)、雨考と多代女は江戸に旅立とうとしたが、実現しなかった。 |
そもはいかいの旧跡須賀川に住は世の人の見つけぬ軒よりひとりは栗毛の馬に乗ひとりは笠の緒の玉さやさやと鳴らしてむさしへ旅たつは老人雨考と多代女なりけりうらやましいくら寝てつくはねのはるを見るそ幾日経てすみた川の鴎に逢ふそ |
蝶のそく宿なら覗け道のほと | 松窓乙二 |
『浅香市集』序
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文化14年(1817年)、『浅香市集』を刊行。乙二序。道彦跋。 文政2年(1819年)9月6日、道彦没。多代女は乙二に師事する。 |
文政6年(1823年)正月25日、須賀川を立ち、2月3日に江戸に着く。『すがゞさ日記』。一具庵夢南の許で約3ヶ月滞留。5月の初め、須賀川の晴霞庵に戻る。 |
嘉永4年(1851年)3月15日、大坂の鼎左及び江戸の一具は「芭蕉翁奧の細道松島の文」の碑を建立。 |
安政2年(1855年)3月、十念寺に芭蕉の句碑を建立。 |
往古の五月雨の滝これそ此
齢八十六 多代
五月雨を田に引瀧の水かさ哉
清民
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明治6年(1873年)10月12日、郡山の多代女門下は芭蕉の句碑を建立。多代女88歳の書。 |
明治26年(1893年)7月21日、正岡子規は須賀川を訪れている。 |
須賀川に道山壮山氏を訪ふ此地の名望家なり。須賀川は旧白川領にして古来此地より出でたる俳人は可伸等躬雨考たよ女なり。 |
明治39年(1906年)10月16日、河東碧梧桐は須賀川の十念寺を訪れた。 |
文化文政以後慶應元年まで達者であった多代女(年九十)はこの地の市原氏の寡婦であった。天保の千代女として聞えておる。その後は現にこの地に住しておってやはり市原氏を名乗っておる。当主某氏に会して多少の遺物等を見る。十数年前の大火に大方は散逸したとの事である。 多代女の墓は十念寺にある。これにも詣る。途中其角の門人晋流の建てた時雨塚を見た。これは料理屋の庭の芝生の中にある。 |
負た子の寐顔に似たり花菫 旅人の馬のり替るかれ野哉 帰来て露の門掃月夜かな 十六夜やまだ夕顔の実なし花 桃咲や軒端のきはの不二の山 をみなへしこよひの明たばかり也 よく文にかゝれる木なり梅[の]花 椋の木に洩る灯の寒し渡り鳥 隠れ簔着たしきせたし花盛 十六夜やまだ夕顔の実なし花 さと人や蛙も時を鳴といふ 風少し雪にさからふ芦間かな 鳴け蛙めはるかつミに取付て 植込の却て寒し枯木より 湯あかりの一くつろきや花の春 何処へ行と子の根問する袷かな こぼれたるあとは間のあり竹のつゆ 庭掃たはかりてすます子の日哉 ひとつづゝ脱しかけふは更衣 老たちの出る夜となれば朧月 |