俳 人
古川太無
元文2年(1737年)5月28日、白井鳥酔は塔の沢を立ち、芦ノ湖畔で秋瓜に出会う。秋瓜と沼津の矢部石矢宅に泊まり、芭蕉の真蹟「都出てゝ神も旅寝の日数哉」を見ている。 |
寛保2年(1742年)夏、佐久間柳居は吐花と東皐を伴い奥羽行脚。『柳居遊杖集』 |
ことし壬戌の夏、きさかたに舟をうかべて、爰かしこ漕ぎわたれば、たゞ画中を行めぐる心地す。むかし古僧都の入道の、仮住居ありし跡なんどを見て、しきりに其[の]閑寂の羨ましければ、 |
蚶潟に我巣も作れ友ちどり | 武陵秋瓜 |
寛保3年(1743年)10月13日、佐久間柳居は鎌倉光明寺の十夜詣に出掛けた。秋瓜は餞別の句を贈っている。 |
我と影とうなつきあふたる旅催ひにひとり殖えふたり加りて同行五蓋の笠うち着つゝ天晴千里も行へきうくひすの先さゝ鳴に笹の霜踏習ふへしと鎌倉の十夜詣を思ひたつ是に旅の具を花鳥によそへて餞せし人々は |
寄花頭陀 帰り花見にとや頭陀の軽出立 吐花 |
延享元年(1744年)、秋瓜名開き。秋瓜は三斛庵に入り、鳥酔は落霞窓に移る。 |
秋瓜名開 |
長慶禅林の花の時祖翁の牌前に於て百囀の雅莚をひらく事けに道の宜加に叶へりと謂つへし汝けふより三斛庵の俳道場を守りてかの釘語を得て怠らす芭蕉翁麦林叟を二尊としていよいよ敬ひかしつき奉るへし我は年老薪こる力なけれと身を終るまて相ともにつとめ励むへしと今の秋瓜坊をいき(ママ)めて |
つかへよやなら茶の茶つみ水も汲 |
延享5年(1748年)5月30日、佐久間柳居は63歳で没。松籟庵を継ぐ。 常陸潮来の本間家に「鹿島詣」の真蹟が伝わり、秋瓜が三代目画江から譲り受けて板行。 宝暦2年(1752年)8月、『鹿島詣』麦浪「後序」。 宝暦6年(1756年)2月29日、鳥酔は松露庵を出て東海道を大坂に向かう。 |
とちらへも京は梺や花の山 |
宝暦9年(1759年)、深川に移る。太無と改める。 明和6年(1769年)4月15日、田中千梅は江戸深川で没。享年84歳。 |
卯の花や白きおきなの名は消えす | 松籟山人 | 太無 |
『なつぼうず』 |
明和7年(1770年)、暁台の奥羽行脚を送る。 |
古翁の杖のむかしをしたふて、尾の暁台子が奥羽行脚は、東行風流のはじめなるべし。 |
千住からもふ細道ぞかんこ鳥 | 太無坊 | 秋瓜 |
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風ちからなふ椎の花散る | 暁台 |
明和8年(1771年)5月1日、諸九尼は松籟庵を訪ねている。 |
一日 松籟庵・抱山宇の老人連を訪ひけるに、昔今の物語ねもごろに聞へ(え)られけるに、年月におこたりし事を愛なくぞ覚えぬ。 |
『東都古墳志』によれば、長慶寺に「松籟庵太無居士」の墓が建てられたとある。 |
張物に紋の出来たる胡蝶かな 華の散音聞出すや朧月 温泉の山をのがれ所や蠅ざかり うぐひすの一幅ものや園の竹 むしろ帆に天窓はつるゝ寒かな ゆふ涼こゝろに鷺のしみる迄 名月や庭に薄もありそ海 地をはしるものゝ巣になる落葉哉 星に見て暁悟れ初さくら 傘の干る空もありはつ時雨
『千ひろの陰』
朝顔や四五日捨て起おほえ 凉風や夢にもさせす目も覚す 花さかり松の間は鷺の如し 風はまた梅の匂ひや初桜 ころころと坂を散たる椿かな 名月や牛の背に見る駕ぶとん 明月や牛の背に敷く駕ぶとん 下掃て置直しけり萩の花 早蕨や我手を吝ひ握やう はらはらとなる間は寒き柳かな うら白の陰にあかるき清水哉 |