俳 人
碓花坊也寥
伊賀上野の人。父梅子は蓑虫庵の土芳門下。白井鳥酔の門人。宮城県柴田郡柴田町の大光寺第十四世環中道一和尚。白雄参禅の師。 |
宝暦6年(1756年)10月12日、碓花坊は大阪浄春寺の芭蕉忌に参加している。 宝暦8年(1758年)秋、『俳諧冬扇一路』(鳥酔編)碓花跋。 |
明和5年(1768年)8月、大光寺に芭蕉の句碑を建立。 |
明和6年(1769年)、平泉の毛越寺に芭蕉の句碑を建立。 |
明和8年(1771年)6月11日、諸九尼は大光寺に也寥和尚を訪ねている。 |
十一日 舟岡の大光寺と申御寺に行。これは也寥和尚と聞えおはします大徳なり。手づから五百の羅漢の尊像をきざミて、後の山に安置し給ふを結縁す。 |
安永2年(1773年)、加舎白雄は「奥羽紀行」の旅の途上、大光寺に碓花坊也寥を訪れている。 |
船岡大光禅刹にやどりて よく寝て目ざめし時や秋の声
『白雄贈答』 |
安永2年(1773年)10月、『俳諧古にし夢』(松露庵鳥明編)。自序。前半が句碑建立記念集である。 |
是やそこの碓花坊のぬし高館の覧古に 祖翁の碑を樹立せし趣也。後に諸国同好の言の葉を集め既に石室に副むとして力たらず、たゞ瓦鶏の如しと語る。余がいふ、庵に歳々月次集と号て同門四時の句を撰す、衲のしれる所也。此冠に置て其志のせちなるをたすけ補むや。 |
也寥禅師の画に |
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松嶋をよく見て句なき翁かな | 白雄 |
也寥禅師の消息に酬ゆ ながき日やみちのくよりの片たより |
天明四年霜月廿七日 時は蔦の葉のかつかつ枯て、ものこひ鴫の啼かひなきゆふべなりけり。みちのく也寥禅師遷化ましましけるよし、おもひこまごまと、そこの門人よりつげこしける。禅師は伊陽の産、芭蕉の翁にゆかりありて、我爲に翁の枕表帋附属の師、且参禅無二の師たりしをや。 |
みちのくの空たよりなや霜の声 |
時は葛の葉のかつがつかれてもの恋鷸の啼音かひなきゆふべなりけり。みちのくや也寥禅師遷化ましましけるよし、そこの図南子よりおもひこまごまとつげこしける。禅師は伊陽の産、芭蕉の翁にゆかりありてわが為に翁の枕表帋附属の師、かつ参禅無二の師たりしをや。 |
みちのくの空たよりなや霜の声 | 白雄 |
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尺牘寒し図南なる人 | 春鴻 |
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みだればこ菴にとしの埃見て | 柴居 |
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あまくちねづみあとなかりけり | 古慊 |
岩橋をとこへかけたかほとゝきす かつらき山にて 一言の主となりけり山さくら 朧月山高からす低からす 蝶の出るまては狂ふや春の雪 五六間うき世はなれて高燈籠 雪の中に折々嘶ふ厩かな 早乙女の蓑ほころびて暮にけり 筆捨ぬ海山もなし時鳥 冬に似た山の端もあり桜ばな 水際になりて柳の葉ぞ長き さゆる夜やほしのちかきに浜あらし 君見よやこよひ行厂たゞならず 秋の声しづかに聞ば楚辞をよむ 海のうへなにをかるへに秋のかぜ 朝がほや杖にもよはき竹ながら 雲かゝりくも出る月の不如帰 蚊遣り火や世は遁れても蚊の声や ひとゝせの古人をかぞふ 日にふれて鶯の音にちからあり |