享和元年(1801年)4月、井上士朗は門人松兄・卓池を伴い江戸から帰る途中で飯田を訪れた。岳輅も尾張から飯田を訪れていた。
文化2年(1805年)、巣兆の世話で向島に菫堂という草庵を結ぶ。(文化11年とする説もある。)
文化7年(1810年)5月8日、一茶は焦雨と両吟。
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八 雨 昼ヨリ雨 焦雨 両吟
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古わらぢ蛍とならば角田川
| 一茶
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嚔(くさめ)一つに夏の明けり
| 焦雨
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萩芒桔梗刈かや壁ぬりて
| 雨
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ころりからりと鳩吹が行
| 茶
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瓢たんで鱠(なます)押へるさたもなし
| 雨
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終の栖は出羽の象潟
| 茶
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『七番日記』(文化7年5月) |
この時が初めての出会いであるようだ。
発句は、文化5年(1809年)4月18日、一茶が流山で詠んだもの。
『七番日記』(文化9年3月)に「瓢たんで鱠(なます)おさゆる袷哉」がある。
文化7年6月13日の朝、小林一茶は蕉雨と山谷堤から猪牙(ちょき)舟に乗り、浅草寺の鐘の音を聞く。
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時の鐘(浅草寺)

十三 晴 鶏のはらはら時、住吉町を出る。蕉雨、同僕保太郎、同行三人。山野堤より猪牙といふ舟に乗る。
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かはせみの芦にちよいとや角田川 蕉雨
観音の晨鐘手に取ばかりに聞
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涼しさに忝(かたじけな)さの夜露哉
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只たのめ山時鳥初松魚(がつを)
| 一茶
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『七番日記』(文化7年6月) |
猪牙(ちょき)舟は江戸時代、市中の水路で大量に使われた一人あるいは二人漕ぎの屋根のない船で、舳(みよし)が長く船足が速い。吉原の遊び客の足として盛んに用いられた。山谷船。
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隅田川から綾瀬川に入る。
小菅川に入。左右合歓の花盛り也。
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古舟もそよそよ合歓のもやう哉
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遠くからくゝり支度や竹の露
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向の木合歓の仲間の花らしや [蕉]雨
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『七番日記』(文化7年6月) |
「小菅川」は綾瀬川。
その日は双樹の留守宅に泊まる。
翌14日、一茶は焦雨に案内されて流山から小金原、布施村を経て守谷にやって来た。
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十四 晴 小金原
下陰を捜してよぶや親の馬
『七番日記』(文化7年6月) |
この句の碑は、流山市の香取神社にある。
一里塚の碑

下陰を捜してよぶや親の馬
布施村中食す。守谷西林寺入。将門旧迹所々に有。
蚊の声や将門どのゝ隠シ水
| 蕉雨
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朝涼や瘧(おこり)のおつる山の松
| 一茶
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『七番日記』(文化7年6月) |
鶴老も飯田の出身で、焦雨とは同郷。
文化14年(1817年)6月18日、一茶は焦雨を訪れ、27日に江戸を立ち、上尾に泊まる。以後一茶が江戸に出ることはなかった。
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[十]八 晴 八巣ニ入
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[廿]七 晴 上尾 油や多左ヱ門
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