俳 人
夜琴亭松十
享保18年(1733年)、夜琴亭松十は岩村に生まれ、伊東新井村の叔父池田弥平衛の養子となる。無壁庵呑吐(のんど)に俳諧を学ぶ。 |
○蘭女 松十が妻也。江戸小田原町大和屋重兵衛の女也。寛政六年申(寅)二月十三日寂す。はいかいを好て叶(ママ)ありて打着されし時一句をのべて、夫の心を和たるという句あり。 |
青梅や花ならかふ | (こう)はたたかれじ |
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| 又 うたれまじ |
辞世とて とくとくの水や今ゆく道の花 上夫婦の墓は新井村礒辺山にあり。
『伊東誌 下』(原著 浜野建雄) |
朝霧や何気隠れにむらふたつ | 伊豆伊東 | らん |
安永8年(1779年)5月、松十は師匠の無壁庵呑吐(のんど)、友人稲葉泰乙(たいおつ)を伴って瀧門寺を訪れて連歌の席を催し、それを誌して観音堂に奉納した。 |
○稲葉泰乙 新井村人。(今巻(ママ)乙天城の祖父、字白華と云) 法(正?)光院釈円智居士(文化十二年亥十月五日)東洞吉益の高弟瀬尾長慶(瀬丘長圭一七三三−八一)門人也。師家を去て産所に帰り、近郷に行われ、其石(名?)頗雷発せり。詩文亦幾許あり。碑銘あれども洩らす。和歌も詠り。
『伊東誌 下』(原著 浜野建雄) |
相見 |
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浦風に旅忘レけり夕涼 | 一茶 |
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伊豆 |
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筵穂御意に入し六月 | 松十 |
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石工(いしきり)とちからくらべる松がねに | 兎山 |
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はしこく狆のかけあるく也 | らん |
『連句稿』 |
○夜琴亭松十 新井村の人。松十は俗称を弥平衛という。相州岩村の産なり。新井村池田弥平衛の養子たるを以[て]弥平衛と名乗る也。新井村東千体閣近き所に家居して漁業渡世を専とせし人なり。兼るに十月より三月迄八幡野村より伊東迄数ヵ村根付漁業を買集て江戸表へ積出し、其買徳を以て年中を賄たるものなり。明和より寛政の頃迄其家専ニ繁昌をせしとみえたり。 常にはいかいを好て行脚遊人独として是を訪らわ(ママ)ざるはなし。妻を蘭という。ともにはいかいを善す。壮年無壁庵呑吐に付て其道を学といえり。 (因曰呑吐は小田原の浪士はいかい文章を善す)文化二年乙十月十六日寂す。行年七十三才。戒名は釈観月。池田氏七代にあたる也。死後門人師徳を仰ぎ追慕を営て、いさりの俤を著し後世へ残す。其序は尾州名古屋士郎、跋は大礒鴫立庵葛三(編者注、宝専寺墓石によれば辞世は次の歌である。暮るるまで死る覚悟はなかりしにふいに一吹こがらしの来て) 辞世(ママ) 寒き夜の夜着かふるにも念佛哉 石橋山で 下か上か石橋山のほととぎす いさりの俤 猪喰ふ星も又よし山さくら 鎧きた人にもあはずさくら狩 いさりの俤の序 伊豆の松十は西道法師の徒にてやあらん漁の中に月鳥(雪?)のこころを悟りて身を花鳥の□□(けし?)きによせたりいとかしこ(賢)しいとあは(哀)れなりけり妻をらに(蘭)といふ藻思を同してともにむかしがたりの人となれり 門人兎山可徳□(敬?)十等師徳をあふ(仰)ぎ追慕の集作出して予に序をともとむ予其人をしらずといへども半□(星)はるばるに来り其状をくは(詳)しくいひぬよつてわれそのあらましをかきつゞりぬ 戊辰秋のまへ(すえ?)
士郎
同後書 おのれにしかざるを直にしおのれにまされるをしたふこれ夜琴亭松十八十にちかきまで夫婦おしならび堅固につとめ遂たるはいかい(俳諧)のいさおしなるべしもとより伊東の裏の豪富にしてさすがに心ざしいやしからず妻といひおふと(夫)といひうらやむべきの涯ならずや いさり(漁)のおもかげ(俤)につけては鎌倉近き大礒の名もなつかしとて此しう(集)のしりへ(尻)にはやとは(雇)れける
鴫たつ庵葛三為
『伊東誌 下』(原著 浜野建雄) |
寒き夜の夜着かふるにも念仏かな | 伊豆 | 松十 |
伊豆 |
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後は何所へ逃ん土用の朝曇 | 松十 |