俳 人
有井浮風 ・ 諸九
浮風は有井氏、幼名は新之助。筑前直方藩士。通称は軍治義保。後、武士を捨て、大坂で医業営む。野坡の門人。別号、湖白庵。 |
湖白菴浮風、姓は有井、筑前州直方の産なり。其先世々武を以國主黒田家に事へて福岡に居す。 |
元禄15年(1702年)、有井浮風は直方藩士に生まれる。 正徳4年(1714年)、諸九は竹野郡唐島の永松家の五女として生まれる。なみ。 享保3年(1718年)、浮風は筑紫を行脚中の野坡に入門し、「湖白」の2字を授けられた。 |
享保戊戌のとし、先師筑紫行脚を待得て、二三の親友と共に桂宇、己々、文雄等同時に入門す。門下に遊ひ、弟子の禮をとりて湖白の二字を授け給へり。 |
元文6年(1741年)、湖白は塩足村の俳人市山の許に滞在。諸九は湖白に入門する。 |
寛保3年(1743年)ごろ、有井湖白はなみと駆け落ち、京都の額田風之を訪ねる。 寛保4年(1744年)、2人は後藤梅従の世話で大坂に移住。なみは大坂で淡々に会っている。 |
天満参りの帰るさ半時庵を訪ひて |
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鶯と物いふ枝の雀かな | 浪女 |
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返し |
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鳳なれや桐も若芽の艸の宿 | 淡々 |
延享3年(1746年)秋、佐久間柳居、中川麦浪は浮風を訪ねている。 宝暦5年(1755年)、浮風は風之の旧庵九十九庵に移る。 宝暦6年(1756年)、浮風は西国行脚に赴く。 |
行脚に赴とて浪花の余波に |
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残り雪草になる迄見て立ぬ | 浮風 |
あるし行脚の留守を守りて |
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待日数うれしや暮て郭公 | 雎鳩 |
宝暦6年(1756年)、野坡十七回忌追善句集『窓の春』(浮風編)。 宝暦10年(1760年)初夏、浮風は西国行脚に出る。 宝暦11年(1761年)、諸九は吉備行脚に出たようである。 宝暦12年(1762年)4月、四天王寺に芭蕉と野坡の墓を建立。記念集『朱白集』(浮風編)。 |
辻君に米こほされな寒念佛 古翁の像をかけて 無名庵に年を守る 除夜の燈や我か月の神花の神 |
百ケ日にもとゝりをはらひて |
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諸九尼 |
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掃捨て見れは芥や秋の霜 | 蘇天 |
九州行脚の名残に廟参して |
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行秋のさらはも松の谺かな | ゝ |
宝暦13年(1763年)5月、浮風一周忌。『その行脚』(諸九尼撰) 明和4年(1767年)、京都岡崎の惟然坊旧庵「風羅堂」に「湖白庵」を結ぶ。 |
明和4年(1767年)5月、『湖白庵集』(諸九尼)上梓。黄薇暮雨跋。 明和5年(1768年)、常陸の俳人五峰は湖白庵を訪れている。 明和6年(1769年)、蝶夢が伊賀上野で『おくのほそ道』(素龍跋・去来奥書)を発見。井筒屋刊行。 明和7年(1770年)、義仲寺の時雨会に参列している。 明和8年(1771年)、湖白庵を跡にして松島まで旅をする。只言法師同行。 |
安永5年(1776年)10月12日、諸九は義仲寺の時雨会に参列している。 |
安永5年(1776年)、岡山で越年。 安永6年(1777年)、重厚と厳島に詣でる。 |
今の落柿舎のぬしとゝに、つくしへまか りける時、安藝のいつきしまにて 千畳に一畳凉し肱まくら |
安永7年(1778年)、直方に戻り山部に草庵を結んで浮風の菩提を弔う。 |
去年は宮古にあそひ、今年はつくしにありて 月今宵爰も東に山はあれと |
天明3年(1783年)、『秋風記』(諸九尼)刊。 天明6年(1786年)1月、『諸九尼句集』刊。 寛政8年(1796年)9月、『俳諧百家仙』(芳園編・鈍雅画)刊。黄華菴升六序。 |
牛よける間を手伝ふやわた畠 うかれ女の情を思ふ あさがほやいなせたあとの夢に咲 七艸やまだよみあまる屮はなし 誰も来てたゝかぬ門の柳かな 山路くらし里に夜更し時鳥 茶にむすふほとは時雨よけふ毎に 時雨会や百里の末もわけてふる まことらしき木ずゑも見ゆる小春哉 枝も葉もけふの時雨にむらはなし きのふ置し露ほとなれと初しくれ 春雨や花さかぬ身は寝てくらす はつしくれ障子ならして過にけり 梅かゝは睡りを誘ふはしめかな 送り火や届くにしても水の泡 明くる夜やまたなかゝれと鳴竈馬 ひそやかに鼻うちかみて御佛名 おもひ羽やほしては鴛の又ぬらし |