俳 人

白兎園宗瑞
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 江戸の人、中川氏、通称三郎兵衛。初号風葉。幕府御用達の両替屋。杉山杉風門の俳人。

 享保16年(1731年)、長谷川馬光佐久間長水らと俳諧撰集『五色墨』刊。中興俳諧の先駆的役割を果たした。

 元文2年(1737年)5月、佐久間柳居は箱根に湯治。宗瑞は句を送っている。

   湯の山のけしきいかゞなつかしとて、
     武陵より此のおとずれあり。

こちらでも浴衣に帯の暑かな
   宗瑞


 元文4年(1739年)9月、白兎園宗瑞は秩父に行く途中で武藏国塚越(現蕨市)の俳人梅富を訪れ白井鳥酔と同宿、鴻巣宿に立ち寄り横田柳几を訪れた。

 秩父山の秋を見むとおもひ立て杖を中仙道にひく時しも草の花は葉に替て染出し梢も同し色を増て行々大宮の町に至りて東光禅寺を訪ひ侍る

また染ぬ木々や夕日の馳走ふり
   宗瑞

   翌日鴻の巣柳緑の宅をたつねて即興

かはらぬを先見かけたり塀の松
   宗瑞

   山雀こから跡にはつ雁
   柳緑


 元文5年(1740年)夏、宗瑞は再び鴻巣宿を訪れている。

 寛保元年(1741年)4月、宗瑞は従兄岑水を誘って日光に参拝の後、常総を巡歴。『旅の日数』

延享元年(1744年)7月30日、60歳で没。

   白兎園宗瑞身まかりし時

この晦日月の兎も見かくしぬ


宗瑞亦武にゆくごとには雅をむつびて、こゝろよき老人(トシヨリ)なりけるが、秋のころ身まかりぬ。

「紀行越の雪間」(建部凉袋

門下に広岡宗瑞がいる。

 明和元年(1764年)9月、一世宗瑞の二十回忌追善集として『白兎余稿(二世宗瑞編)上梓。

 明和9年(1772年)、『広茗荷集』(野桂編)によれば、雑司ヶ谷の本浄寺に「名月塚」を建立したようであるが、今はない。

宗瑞の句も刻まれていた。

名月や百日紅を照かへ

 安永7年(1778年)、雪才は伊香保温泉神社に芭蕉の句碑を建立。

芭蕉の句碑


碑の裏に宗瑞の句も刻まれている。

てれはふし張りふとるゝやしくれ傘

 千葉県芝山町の芝山仁王尊にある「杉家歴代」の句碑に宗瑞の句が刻まれている。



人知らぬ杉ももみじも年の坂

宗瑞の句

   風葉


   葛鼠法師いかほの入湯を送りて

脱捨のゆかたにも見る牡丹かな

   是も病後の吟のよしにて

ほとゝぎす我も寝床の山を出る


名月や百日紅を照返し


跡からはかけろふ燃る時雨かな


糸三すしあやしの鳥の山さくら


日の春をさすがに鶴のあゆみ哉


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