蕉 門
山崎宗鑑
宗祇・宗長・荒木田守武などと交流し俳諧連歌を興隆した。『新撰犬筑波集』を撰集。 |
寛正6年(1465年)、滋賀県草津市に生まれる。本名は志那範重(通称弥三郎)。幼少時より室町幕府九代将軍足利義尚に仕えた。 延徳元年(1489年)3月26日、義尚は鈎の陣で没す。宗鑑は後世の無常を感じ出家した。 明応年間に京都の山崎に「對月庵」を結び、山崎宗鑑と呼ばれた。 大阪府三島郡島本町にある関大明神社の北側に山崎宗鑑の屋敷があったらしい。 享禄元年(1528年)、観音寺市の興昌寺に「一夜庵」を結ぶ。 |
宗鑑の庵の門には、「上は来ず、中は来て居ぬ、下は泊まる。二夜泊るは下々の下の客」とあったという。 |
貞亨5年(1688年)4月23日、芭蕉は山崎宗鑑の屋敷に立ち寄り、句を詠んでいる。 |
又、貞徳・宗鑑・守武の画像に東藤子讃を乞けるに、「何を季に、なにを題に、むつかしの讃や」とゑみたまひ、やがて書てたびけり。その句、其こと葉書、 |
三翁は風雅の天工を受け得て、心匠を万歳に伝ふ。この影に遊ばんもの、誰か俳言を仰がざらんや |
月華の是やまことのあるじ達 | 芭蕉翁 |
手をついて哥申あぐる蛙かな 春さむきとし にがにがしいつ迄嵐ふきのたう かしかまし此里すきよ郭公 宮古のうつけ何を待らん 借錢もきのふの淵ぞけふの春 花の香をぬすみてはしる鼠かな 元朝の見る物にセん富士の山 元朝の見るものにせん富士の山 |