俳 人

藤森素檗
indexにもどる

素檗の句

 蓼阿の子。通称島屋太郎右衛門。代々油屋を営む。加藤暁台に俳諧を学ぶ。

 可都里『名録帖』に「素檗 嶋屋太郎右衛門」とある。

 五味家蔵『俳人住所録』には「素檗 上諏訪 島屋太郎左衛門」とある。

 宝暦8年(1758年)、上諏訪の桑原町の島屋に生まれる。

 寛政2年(1790年)8月10日、蓼阿は63歳で没。

 寛政4年(1792年)10月17日、栗庵似鳩は和田峠を越えて下諏訪の高島城下に着き、藤森素檗の家に泊まっている。

夕べ近ければ何某素檗を訪ふ。年歳(としどし)行脚の杖を廿年斗、家うち人の厚情をかさねて、あたかも親属にひとし。やれ足の湯まいらセ、先寒かりなん巨(炬)燵に入よ、と浅からぬ饗に旅の労を忘るゝ斗也。


 寛政7年(1795年)、尾張に行脚して井上士朗及びその一門らと歌仙を巻く。『草まくら』

 享和元年(1801年)正月、尾張の士朗を訪ねる。『春鶯囀』(岳輅編)。

 享和元年(1801年)、井上士朗は門人松兄・卓池を伴い江戸から帰る途中で諏訪を訪れた。

 享和2年(1802年)11月7日、伊勢の俳人南江は素檗を訪問。『むぐらのおく』

 文化4年(1807年)、曽良の百回忌を記念して『続雪まろげ』を刊行。

 文化5年(1808年)、曽良の百回忌を記念して雄島(御島)に曽良の句碑を建立。遠藤曰人筆。



松島や鶴に身をかれほとゝぎす

 文化5年(1808年)5月25日、『曽良句碑建立句集』刊。

 文化6年(1809年)、石牙の十三回忌追善集『ふるしも』(漫々編)刊。素檗跋。

 文化7年(1810年)12月、『続草枕』(素檗編)跋。

 文化9年(1812年)5月16日、井上士朗没。同年、士朗の追善に信濃の善光寺に詣で、魂祭を行う。『信濃札』(素檗編)

 文化10年(1813年)春、一茶は素檗の撰集募句に応じて、句を投じている。

此のうちにて御加入被下度、奉願上候。かしく。一茶

素檗様

   ほくほくと霞む(ん)で来るはどなたかな
   泣く子供赤い霞がなくなるぞ
   春風や御祓うけてかへる犬
   梅の木の花と詠るしめしかな

 文化10年(1813年)閏11月14日、一茶は素檗から『信濃札』が送られる。

十四 陰 諏方(訪)従素檗『信濃札』一部二冊来

『七番日記』(文化10年閏11月)

 文化14年(1817年)、『曽波可理』(巣兆自撰句集)刊。鵬斎抱一序。

素檗の書簡が収録されている。

 一、 巣兆居士年来の玉句ども数吟御写し被下候様ねがひ上候。句集御出し被成候事、明年頃が可然候。急ぐとあやまりあるものなり。かねての御懇意、小子にはいづれ御内見希候。

素檗

   六月廿五日

 文政元年(1818年)6月、里丸は素檗亭で歌仙。

   歌仙

信州上諏訪 素檗亭興行

郭公二ッ并はゝ暑からめ
   素檗

 あやめ見に行花の雨間
   里丸

文政4年(1821年)、64歳で没。

 文政4年(1821年)、素檗の追善集『ひなほうご』(青隠編)刊。

 文政6年(1823年)、素檗の三回忌に久保島若人『素檗發句集』を刊行。

門人に岩波其残がいる。

諏訪市小和田南の「文学の道公園」に句碑がある。



杖さえも若菜色なるあした哉

諏訪市中洲福島にある曽良の句碑に素檗の句が並刻されている。



剃捨てて黒髪山の故露もかへ
   曽良
唐土へ雲吹き拂へ十三夜
   自徳
春立つや富士の白雲出でにけり
   素檗
湖へ出久かたの田植かな
   若人

俳 人に戻る